マンドリンオーケストラ
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日本への普及
日本にマンドリンが伝えられたのは、1894年四竈訥治がイギリス人にマンドリンを贈られ演奏したのが最初といわれている。1901年には比留間賢八が留学先のイタリアからマンドリンを持って帰国し普及に尽力した。詩人萩原朔太郎が比留間に師事しマンドリンを演奏していたのは有名。
1915年に武井守成がシンフォニア・マンドリーニ・オルケストラ(後のオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ)を設立し、指揮者に瀬戸口藤吉や大沼哲や菅原明朗を招いている(菅原は1930年代以降マンドリン界から一時離れるが、1960年代より復帰し関西マンドリン合奏団に多くの曲を提供する)。オルケストラ・シンフォニカ・タケヰは演奏のみならず研究誌の発刊やコンクール開催などを行い、マンドリン音楽の発展に尽力した。音楽教育者齋藤秀雄のキャリアは、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ主催の合奏コンクールで、オルケストル・エトワールを指揮して入賞したことから始まっている。
また大学でもマンドリンクラブが相次いで設立されるようになり、1910年には慶應義塾・同志社で、1913年には早稲田大学で、1917年には関西学院で、1921年には九州帝国大学(現在の九州大学)・北海道帝国大学(現在の北海道大学)で、1923年には明治大学でマンドリンクラブが設立されている。後年のマンドリン音楽の発展には社会人の団体だけではなく、学生団体も大きな役割を果たすことになる。戦時中は各団体とも活動が停滞するが、戦後の復興とともに再びマンドリン音楽も盛んとなる。
以上の各団体はいずれもイタリア式のマンドリンオーケストラを範とした編成や選曲を志向しており、戦前はイタリアが同盟国であったこと、戦後もイタリアのようにプロパガンダに利用されなかったことが幸いして温存され、現在に至っている。
1960年代より各大学のマンドリンクラブでは部員数が急増し、それまでマンドリンクラブがなかった大学でも続々と創設されるようになる。しかしレパートリーの中心であったイタリアのマンドリンオーケストラ曲はいずれも小規模アンサンブル向きで、マンドリンオーケストラの大規模化は新たなレパートリーを生み出すことを必要とした。その要請に応えたのが中央大学マンドリンクラブ・立命館大学マンドリンクラブ技術顧問鈴木静一、慶應義塾マンドリンクラブ常任指揮者服部正、関西学院大学マンドリンクラブ・京都女子大学マンドリンオーケストラ技術顧問大栗裕らであり、彼らの作曲したマンドリンオーケストラ曲は管楽器や打楽器を含んだ大規模なものである。また同志社大学マンドリンクラブ技術顧問中野二郎と甲南大学マンドリンギタークラブ・梅花女子大学マンドリンクラブ技術顧問松本譲は忘れ去られていた戦前のイタリアの管弦楽曲や吹奏楽曲を発掘し、マンドリンオーケストラ用に編曲して大幅なレパートリーの増加をもたらした。
1970年代には上記の作編曲家の活動に加え、東海学生マンドリン連盟に加盟する各大学が新曲の委嘱を活発に行うようになる。名古屋大学ギターマンドリンクラブは帰山栄治と、愛知学院大学マンドリンクラブは鈴木静一と、愛知教育大学マンドリンクラブは川島博と、名城大学ギターマンドリン合奏団は大栗裕と、中部工業大学(現在の中部大学)マンドリンクラブ・名古屋学院大学マンドリンクラブは熊谷賢一と、岐阜大学ギターマンドリンクラブは藤掛廣幸と関係が深く、東海学生マンドリン連盟合同演奏会はマンドリン界に現代的な新風をもたらした。
しかし1980年代以降、マンドリン人口が減少しはじめ、1990年代には大規模曲の演奏が困難になる団体も出てくるようになった。そのため日本人の作品は小規模化の傾向を見せるようになる。またこの頃から小規模アンサンブル向けのドイツのツプフ・オーケストラ曲が紹介されるようになり、重要なレパートリーとなりつつある。現在多くの団体では大規模曲と小規模曲が共存している状態である。
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