マント事件 退学後

マント事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 20:59 UTC 版)

退学後

成瀬家の援助と京大入学

菊池の退学後、成瀬正一はすぐに父・成瀬正恭(当時十五銀行の総支配人)に相談した[2][1][3]。菊池の退校理由は一切話さず、大学に行く学資が菊池にないから援助してほしいと頼み込んだ[4][2][1]。成瀬の父は菊池と同じ香川県出身ということもあり、快く息子の頼みを聞き入れた[4][2][1]

無精であった菊池は、3つの条件(毎日の洗顔、風呂に入ること、着替えをすること)を誓った上で白金三光町の成瀬家に寄宿し、成瀬の母・峰子から母子同様の親身な世話を受けながら[注釈 6]、9月に京都帝国大学英文科へ進学する(当初は選科で、翌年に高等学校卒業検定試験に合格してから本科に移る)[4][1][9]。ちなみに、成瀬が、菊池の退学と佐野が故郷に帰った真実の事情を初めて知ったのは、6月に友人の石原から告げられた時であった[2]

菊池は高等学校卒業検定試験合格の際に東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)の進学を希望していたが、当時の文科大学長上田萬年の認めるところとならなかった[4][2][19][13]。成瀬と石原が直接に上田学長に必死に懇願してもだめであった[2]。上田萬年は佐野の保証人で、佐野が上田の印章でなくデタラメな印章を押印し下宿届などを一高に出していたことが発覚したこともあったため、上田は菊池を佐野の「悪友」と見なしていたようでもあった[4]

佐野の帝大中退

一方、佐野文夫は父のいる山口県に帰って秋吉台本間俊平の感化院で大理石を採掘する謹慎生活を送った後、一高を遅れて卒業、東京帝国大学の哲学科に進学しながら高校時代から続けていたレーニンフォイエルバッハローザ・ルクセンブルクなどの翻訳を手がけた。しかし、大学に入ってからも盗癖は治らず、哲学科の研究室から本を持ち出したのが発覚し、1914年(大正3年)に東京帝大を中退した[2][19]

佐野は、成瀬正一から借りた腕時計や久米正雄から借りた金も踏み倒すなどしていたが、佐野は非凡な才能を持っていたため第三次『新思潮』の同人仲間は大目に見ていた[9]。盗みや踏み倒しで得た金で佐野は、倉田百三待合に行って遊んでいた[12][2]。この倉田については、彼が妹・艶子を佐野に紹介した一件が、そもそもの事件の発端の元凶と捉えていた菊池にとっては不愉快な存在であった[4][7][注釈 7]。その後、佐野は山口県秋吉台の感化院に再び戻り、昼は青空の下で大理石を磨き、夜は聖書を読んで神に祈りを捧げる懺悔の日々を約2年間送った[12][2]

なお、長崎は菊池が京都帝国大学に在籍していた1914年(大正3年)に面会した際、事件の折の行動に赦しを求めたところ、菊池は「今はもうそんなことは思っていない」と返答したという[9]芥川龍之介や久米正雄といった刺激し合う文学の友がいない京都大学では、孤独を紛らわすため研究室や図書館に入り浸り、東京にいられた時よりも「二倍か三倍位多くの本をよむことが出来たと思ふ」とのちに菊池は回想している[4][19]。多くの読書で菊池は、シングダンセイニグレゴリーなどのアイルランド戯曲に傾倒した[21][19]

この時期、佐野が再び盗みの罪を犯したことを知ったであろう菊池は、自分の犠牲的行為が無に帰したことをはっきりと自覚した[8][6]

彼は、一時の昂奮と陶酔との為に、青木の為に払つた犠牲の、余りに大きかつたのを後悔し始めた。彼は、よく芝居で見た身代りと云ふ事を、考へ合はせた。一時の感激で、主君の為に命を捨てる。それは其場限りの事だ、感激の為に理性が、盲目にされて居る其場限りの事だ。雄吉自身の場合の如く、その感激が冷めて居るのに、まだその感激の為にやつた一時の出来心の、恐ろしい結果を、背負はされて居るのは堪らない事だと思つた。 — 菊池寛「青木の出京」[8]

ロマンチシストの菊池は幻滅的な現実を忘れるため、井原西鶴歌舞伎オスカー・ワイルド谷崎潤一郎などの耽美的・享楽的芸術世界を心のよりどころとした[6]。また、京都の芸術を復興させるため、その計画を『中外日報』で呼びかけるが、結局は頓挫し京都にも幻滅していった[6]。やがて菊池は、ワイルドと平行し愛読していたバーナード・ショーの現実主義的思想に実感を伴って共感するようになり[22][6]、生活信条やいくつかの文学作品にも反映されることになる[6]

ショオは幻覚を蛇蝎視して居る、人類は生の事実を逃避せん為に凡ての緩和剤を用ゐて幻覚を追ふにのみいそがはしい、人類が幻覚を追ふ力は最も大なる力であるがこの幻覚を破つて生の事実に面と向つてこそ初めて切実なる事理は得られるのであると。(中略)ショオ劇の人物も人生の迷路に立ち或は因習の信条に迷はされながらも遂に自己が浅薄なるローマンスの殿堂に参拝して居たのを感悟し勇ましく光明に向つて突進して行くのである。 — 菊池寛「青顔朱髯のショオ」[22]

注釈

  1. ^ 一高の『校友会雑誌』227号(大正2年6月15日号)には「草名数之助」という筆名による倉田艶子の「なつかしき幹」と題する短歌25首(佐野への恋歌など)が掲載されたこともあった[2]
  2. ^ 1年生の頃に菊池と佐野が一緒に国立上野図書館に行った時、インキ壺を持っている佐野が玄関入り口のところで門衛に咎められると、怒って感情的になった佐野がいきなり持っていたインキ壺を足下に投げつけたこともあった[10]。壺は割れ散乱したインキでそこら中が汚れたため、佐野は建造物毀損として危うく上野図書館の出入り禁止処分になるところだったという[10]
  3. ^ 日本では古くから同性愛の風習がみられ、高松中学でも上級生が下級生の美少年と兄弟の約を結ぶ風習があった[14]。鹿児島や熊本ではこれを「稚児」と呼び、高松では「ペット」と言った[14]。キリスト教では同性愛は罪悪であるが、日本の旧制中学ではむしろ女性との交際は士気を弛緩させ堕落させるものとして厳しく罰せられた一方、男子同士の恋愛は寛大で、気節を磨く倫理的なものとしてみなされていたという[14]
  4. ^ 渋谷彰はその後、東京外国学校西班牙語学科に進学し、卒業後は三井物産に就職。のちに郷里の香川県小豆島で県立中学の教員となり、退職後も島で暮らして90代まで長生きし、菊池からの手紙や交換日記を大事に保管していた[14][15]。その文面には「あなたは決して僕のPではない。私の世界でたゞ一人の愛弟であります」「My dear boy」という文言もみられる[14]。渋谷から菊池へ出した多くの返信もあったが、現在はどこにも残されていないという[14]
  5. ^ しかし、前言を翻すことなく佐野の罪をかぶったままの菊池の態度は、学校当事者たちに感銘を与えた[19]。特に新渡戸稲造は「一高の入学を志願した感心な前科者」と題する文章を同年5月に『実業之日本』に寄稿し、自身の在職中に最も感銘を受けたエピソードとして、マント事件とは分からないよう仮構化しながら、菊池の立場を弁護しその態度を賞讃した[4][19]
  6. ^ この成瀬峰子の親切に多大な感謝を感じていた菊池は、峰子夫人の死去に際して短編「大島が出来る話」(1918年)を『新潮』に書いて[4][2][3]、私家版『至誠院夫人の面影』(1920年3月)を上梓した[3]
  7. ^ 後年に菊池が創刊した『文藝春秋』の匿名批評欄でも、たびたび倉田百三が批判の的となり、倉田攻撃の急先鋒として編集同人の斎藤龍太郎の投稿も注目を浴びた[7][20]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「第一編 菊池寛の生涯 二、青春放浪時代」(小久保 2018, pp. 31–50)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az 「第十五章 菊池寛『文藝春秋』を創刊 〈2〉-〈7〉」(文壇史 2010, pp. 46–64)
  3. ^ a b c d 「学生時代――友と友の間」(アルバム菊池 1994, pp. 16–27)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 「半自叙伝」(文藝春秋 1928年12月号、1929年1月号)。菊池・随想23 1995, pp. 41–48に所収
  5. ^ a b 佐伯彰一「『劇的人間』のドラマチックな青春」(菊池・評論22 1995, pp. 632–648)
  6. ^ a b c d e f 片山宏行「《菊池寛文学のおもしろさ》作品のうしろ影 十」(菊池・感想24 1995月報「菊池寛全集通信・18」pp.1-9)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m 「好色」(杉森 1987, pp. 50–85)
  8. ^ a b c d 「青木の出京」(中央公論 1918年11月号)。菊池・短編小説2 1993, pp. 247–266に所収
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n 関口 2006
  10. ^ a b c 「半自叙伝」(文藝春秋 1928年10月号)。菊池・随想23 1995, pp. 34–37に所収
  11. ^ a b 久米正雄「同性恋愛の宣伝者(菊池寛氏の印象)」(新潮 1919年1月号)。文壇史 2010, p. 46、杉森 1987, pp. 68–69に抜粋掲載
  12. ^ a b c d e 「その頃の菊池寛 一 はじめて菊池寛をたずねる」(江口 1995, pp. 109–124)
  13. ^ a b 「菊池寛と図書館と佐野文夫」(東条 2009, pp. 335–354)。初出は『香川県図書館学会会報』
  14. ^ a b c d e f g 「恋文」(杉森 1987, pp. 7–49)
  15. ^ 「京洛」(杉森 1987, pp. 86–111)
  16. ^ a b 「半自叙伝」(文藝春秋 1928年9月号)。菊池・随想23 1995, pp. 32–34に所収
  17. ^ a b c 成瀬正一の日記。文壇史 2010, pp. 49–50, 55–57に抜粋掲載
  18. ^ a b 長崎太郎「吾が友菊池寛」(山口アララギ会『なぎ』1956年2月)。文壇史 2010, pp. 51–53に抜粋掲載
  19. ^ a b c d e f g h i j 「第一編 菊池寛の生涯 三、作家修業時代」(小久保 2018, pp. 51–70)
  20. ^ 「仮面を剥ぐ」(杉森 1987, pp. 192–224)
  21. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年6月号-8月号)。菊池・随想23 1995, pp. 34–37に所収
  22. ^ a b 「青顔朱髯のショオ」(中外日報 1914年6月2、3日)。菊池・評論22 1995, pp. 313–316に所収
  23. ^ a b 「文壇へ――記者から作家へ」(アルバム菊池 1994, pp. 28–47)
  24. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年10月号)。菊池・随想23 1995, pp. 61–63に所収
  25. ^ 「半自叙伝」(文藝春秋 1929年12月号)。菊池・随想23 1995, pp. 65–67に所収
  26. ^ 「第一編 菊池寛の生涯 四、新進作家からジャーナリストへ」(小久保 2018, pp. 71–93)





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