プロイェシュティ 地理

プロイェシュティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 01:18 UTC 版)

地理

プロイェシュティは、ムンテニア地方の真中にあり、ルーマニア平原の北部中央に位置している。北はブレジョイ、南はバルカネとブラジ、西はトゥルグショール・ヴェキ、東はブコヴの各コムナ(小自治体)と隣接している。ワイン生産地域のデアルル・マーレ=カルガレアスカ谷の近くにあり、高山の観光地プラホヴァ谷への直接の入り口である。また、首都ブカレストとトランシルヴァニアモルドバをつなぐ街道沿いに位置しているので、重要な交通の交差点でもある。

プロイェシュティ近郊には二つの大きな川が流れている。一つは南東に向かうプラホヴァ川、もう一つは北と東に向かうテレアジェン川である。市は、テレアジェン川の支流のドゥンブ川沿いに位置している。

プロイェシュティの面積は約60平方キロメートルを占めており、そのうち35平方キロメートルは郊外のコムナである。市は平野部に位置しているが、平均の標高は150メートルである。

歴史

町の創設の日付と、その最初の住人たちに関しては、書き残された証拠はわずかしか存在しない。歴史家ニコラエ・バルチェスクによれば、ミルチャ老公の時代には、プロイェシュティに行政機関「Căpitănie a Ploieştiului」が存在していた(1413年)という。記録から見れば、全ての歴史の記録は1503年までしか遡れず、その時のプロイェシュティの荷馬車引きのドラゴイ、トゥドル、ネァグ、その他の名前のあるブラショフの書類が、日付けの記された最初のものである。町の名は更に、ワラキア公ペトル若年公の署名のある、プロイェシュティのアヴルツとバルカネシュティの大臣コレシの間で5つの葡萄畑の売買が確認された、1567年の権利証書の中に見られる。

プロイェシュティの転換点は、ミハイ勇敢公による軍事作戦の基地となり、自営農民たちの村がワラキア公の市場の地位に昇格した1597年であった。公の支援を受け、17世紀から18世紀には貿易と手工業の中心として急速に栄えた。その発展は、近郊にある他の町トゥルグショールが只の村になるという衰退も遠因となった。

19世紀半ば、プロイェシュティ地方には世界有数の原油採掘および石油精製所が置かれていた。 プロイェシュティとブラショフをつなぐ道路が1864年に開通し、1882年鉄道が敷かれた。多くの学校と病院がこの時代につくられた。 短期に終わったルーマニア王政に対する1870年の反乱時には、8月8日の1日だけ、「プロイェシュティ共和国」が宣言された。

1943年8月、タイダルウェーブ作戦時のアメリカ空軍による爆撃の後、火災を起こしたプロイェシュティの石油タンク

2つの大戦間、地元工業は石油製造過程で沸騰した。外資系が大半を占める大手石油企業が市で操業を開始した。 共産主義政権の樹立までは、「プロエシュティ(Ploeşti)」の名が使われ、プラホヴァ県 (戦間期)の県都であった。

1940年11月地震で大きな被害を受けたが、市は第二次世界大戦中、同盟していたナチス・ドイツの重要な石油提供地となった。飛行場から近かったために、プロイェシュティは連合国側の攻撃を受けた。 1943年8月3日アメリカ空軍ベンガジからタイダルウェーブ作戦を決行し、178機のB-24が低空で強固な爆撃を精製所へ仕掛けた。空襲は地上に酷い損傷を与えたが、その殆どは修繕された。1944年にはイタリアの空軍基地から遣って来た米軍機が爆撃を行なった。1944年8月、遂にソビエト連邦軍がプロイェシュティを陥落させた。

戦後成立した共産主義政権は、大半が私有であった石油精製所を国有化した。そして国の近代化目的で原油・石油産業に手厚い投資を行い、戦争の傷跡を修復したが、その社会と経済の変化の状況の中で、都市の重要性は低下した。 1990年以降、町は再び経済的、文化的に発展することになった。

人口

プロイェシュティ市の人口は、近代に大変速いペースで増加した。これは、その時代の市の著しい経済的発展によって説明がつく。1810年には2024人だった住民は、1837年には3000人になり、ルーマニア統一の直後(1859年)は 26,468人、1884年には32,000人であった。

また1899年(45,107人)、1912年(56,460人)、1930年(79,149人)のデータを比較すると、プロイェシュティの人口の増加は、ブカレストとコンスタンツァを除いた、ルーマニア国内のすべての大都市より速度が早い。このことは、更に、石油の採掘の拡大を通じて説明できる。第二次世界大戦、特に爆撃によって引き起こされたプロイエシュティの人口の減少と消失は迅速に回復し、1948年1月に登録されていた住民は95,632人であった。

1930年の市の人口79,149人の 内訳はルーマニア人69,139人(87.3%)、ユダヤ人3,708人(4.6%)、マジャル人1,591人(2.0%)、ドイツ人1,307人(1.6%) ほかであった。宗教的な見地からの人口は、正教会69,458人(87.7%)、ユダヤ教3.843人(4.8%)、ローマ・カトリック教会2,629人(3.3%)、ルーテル教会1,115人(1.4%)、東方カトリック教会1,076人(1.3%)その他から構成されている。

現在の市の人口は、232,527人である[2]。民族の構成は以下の通りである: ルーマニア人: 225,570人 (97%)、 ロマ: 5,873人 (2.52%)、 マジャル人: 237人 (0.10%)、ドイツ人 (サシ): 148人、ギリシャ人: 108人、ユダヤ人: 65人、その他: (ロシア人ウクライナ人セルビア人): 526人 (0.23%)。


  1. ^ Rezultatele alegerilor locale din 2008” (PDF) (ルーマニア語). Biroul Electoral Central. 2009年6月7日閲覧。
  2. ^ a b Rezultatele recensământului din 2002 pentru Ploieşti, Prahova” (ルーマニア語). 2009年6月7日閲覧。
  3. ^ Thomas Eakins - Scenes from Modern Life #WORLD EVENTS” (英語). 2009年6月29日閲覧。
  4. ^ Ploieşti Industrial Parc” (ルーマニア語). 2009年6月29日閲覧。
  5. ^ Unilever builds factory in Ploiesti Unilever builds factory in Ploiesti” (英語). en:Bucharest Business Week (2006年3月10日). 2009年6月29日閲覧。
  6. ^ RATP Ploieşti” (ルーマニア語). 2009年6月29日閲覧。






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