ブルゴーニュ王朝 ブルゴーニュ王朝の概要

ブルゴーニュ王朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 16:35 UTC 版)

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ボルゴーニャ(ブルゴーニュ)家
王朝
ポルトガル王国
領地 ポルトガル
主家 カペー家ブルゴーニュ家
創設 1093年 (929年前) (1093)
家祖 ポルトゥカーレ伯エンリケ
最後の当主 フェルナンド1世(美男王)
現当主 断絶
滅亡 1383年
分家

歴史

王国の成立

オーリッケの戦い

ポルトガル王国の起源は、イベリア半島におけるキリスト教国のレコンキスタ(国土回復運動)に始まる[2]

フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家アンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)は、十字軍運動の一環としてカスティーリャレオン王国のレコンキスタに参加した。1096年にエンリケはカスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世(在位:1065年 - 1109年)からポルトゥカーレ及びコインブラの伯爵位を授けられ、王女テレサと結婚した[要出典]

アンリの死後、ポルトガルではガリシアの大貴族トラヴァス家が勢力を広げ、在地の貴族たちはガリシアの拡大に抵抗を示した[3]。ポルトガルの貴族、サンティアゴ大司教の干渉に不満を抱くポルトガルの司教たちは協力して外部の勢力に抵抗し、彼らはアンリとテレサの子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)を指導者に選出した[4]。アフォンソ1世は従兄であるカスティーリャ=レオンのアルフォンソ7世(在位:1126年 - 1157年)からの独立を試みる。1139年オーリッケの戦いムラービト朝に勝利した後、アフォンソ1世はポルトガル王を称した[2]ローマ教皇の仲介によりアルフォンソ7世も1143年、サモラ条約によりポルトガル王位を承認する。しかし、カスティーリャ=レオン「皇帝」を自称するアルフォンソ7世は諸王国への宗主権を有しており、ポルトガル王国はカスティーリャ=レオンよりも下の地位に置かれていた[5]。アフォンソ1世は国際社会における立場を改善するため、教皇アレクサンデル3世と封建的主従関係を結び、1179年ローマ教皇庁から正式に国王として認められた[1][5][6]

レコンキスタ

アフォンソ1世の治世では首都コインブラを本拠としてレコンキスタが進められ、1147年にアフォンソ1世はイスラム教徒からリスボンを奪取した。モンデゴ川以北ではプレスリア(自由小土地所有者)の中から現れた平民騎士(カヴァレイロ・ヴィラン)がレコンキスタの主戦力として活躍し、モンデゴ川以南の地域では十字軍騎士と騎士修道会が戦争と植民に従事していた[5]。レコンキスタによる南下はさらに続き、1168年までにアレンテージョ地方全域がポルトガルの支配下に入った[7]。西方十字軍の呼びかけに応じた国外の兵士もポルトガルのレコンキスタに参加し、ポルトガルは1147年のリスボン奪還から1217年アルカセル・ド・サル奪還までの6度の戦闘で彼らの支援を受ける[8]。また、領土を拡張するポルトガルは、レコンキスタの過程で同じキリスト教国であるレオン王国とたびたび衝突した[要出典]

イスラーム勢力との戦いはその後も一進一退を繰り返したが、1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教軍が決定的な勝利を収め、キリスト教諸国の南下はより進展する[9][10]サンシュ2世はアレンテージョ全土を回復し、1238年にタヴィラ、カセーラ、東アルガルヴェを奪還した。1249年にポルトガルの国土は南部海岸に達し、イスラーム勢力の飛び地となっていたアルガルヴェ東部のファロシルヴェスを陥落させたことでポルトガルのレコンキスタは完了する。一連のイスラーム勢力との戦争で国王と領主が獲得した富の多くが大聖堂、修道院、教会などの宗教施設に充てられ、12世紀半ばから13世紀半ばにかけての宗教建築熱と技術の発展を促した[11]。また、レコンキスタの過程で奪還した土地では、イスラーム的な中央集権制度を望む国王と特権を求める封建貴族の対立が表面化していく[12]

南部からイスラーム勢力を駆逐した後、ポルトガルはカスティーリャとアルガルヴェを巡って争うが、1267年までにアルガルヴェの領有権を確保した[要出典]

繁栄期

サンシュ2世の治世にポルトガルは混乱期を迎え、1245年にサンシュ2世は教会から廃位を宣告された[13]。代わって国王に擁立されたサンシュ2世の弟アフォンソ3世は混乱を収拾し、1249年にレコンキスタを完了させる。1255年、アフォンソ3世はコインブラからリスボンに遷都した。市民の反発を受けながらもアフォンソ3世はリスボン市内の国王の権限を拡大し、ポルトガル王はリスボンの最大の庇護者となる[14]

次のディニス1世の治世にポルトガル中世の繁栄期が訪れる[13][15]1289年に国王と聖職者との間に協定が結ばれ、アフォンソ2世の時代から続いていた教会との抗争が終息する[16]。中央集権化を進めるためにポルトガルにローマ法が導入され、複数の国にまたがって活動する騎士団勢力は王権の支配下に組み入れられた[17]。ディニス1世の治下では殖民と干拓が推進され、多くの入植地に定期市の開催を認める特許状が発布されて国内交易が活発になる[18]。農業の発達による収穫量の増加は国内外の商業の発展にもつながり、ジェノヴァフィレンツェなどのイタリア商人が王国内で本格的な活動を始める[13]

1295年から1297年にかけて、ポルトガルは長らく友好関係にあったカスティーリャと交戦し、アラゴン王国と連合してカスティーリャの内戦に介入する。戦争の結果、ポルトガルはコア川ポルトガル語版アゲダ川ポルトガル語版間の地域を獲得した。また、1297年に締結されたアルカニセス(アルガニーゼス)条約によってポルトガルとカスティーリャ王国との国境が確定し、この条約によって引かれた国境線はヨーロッパ最古の国境として長らく存続し続ける[19]。海運の安定化を図るために保険制度が創設され、1317年にはジェノヴァ人マヌエル・ペサーニャを招聘して海軍が増強された[13]

王朝の交代

アヴィス王朝の創始者ジョアン1世

14世紀中ごろにヨーロッパ・地中海世界で流行したペストen)は1348年にポルトガル王国でも流行し、王国の人口の約3分の1が失われた[20][21][22]。労働人口が減少した農村部では、領主の搾取に抵抗する農民一揆が各地で頻発した[21]。労働力の確保を求める貴族・領主は国王に迫って農民の移動を制限する法令を発布させたが、効果は現れなかった[22]。この危機の中でリスボン商人を初めとする一部の富裕層は輸出で利益を上げ、国王は彼らの支持を得ようと頻繁にコルテス(身分制議会)を開いた[22]

1345年に即位したフェルナンド1世はカスティーリャの王位継承問題に介入し、3度にわたって戦争を挑んだが勝利を収めることができなかった。フェルナンド1世はカスティーリャの王位継承権をイングランドエドワード3世の息子であるランカスター公ジョン・オブ・ゴーントに譲り、カスティーリャはフランスと同盟したため、カスティーリャ王位を巡る戦争は百年戦争の展開と連動する(第一次カスティーリャ継承戦争[23]。また、1378年からの教会大分裂の中でポルトガルはローマとアヴィニョンの教皇を交互に支持したが、戦争と教会大分裂はポルトガルに大きな痛手を与えることになる[24]。戦争に敗れたポルトガルの国土は荒廃し、海軍は壊滅した[23][24]。このため、フェルナンド1世は娘のベアトリスをカスティーリャ王子フアン(のちのフアン1世)の元に嫁がせなければならなくなった[23][21]

フェルナンド1世はディニス1世の路線を継承した経済政策を実施し、外交とは反対に一定の成果を挙げた[25]収穫量を増やすために農民に課した租税を軽減し、未開地の所有者には開墾に従事した人間に土地を譲渡することが義務付けられた。海上交易を推進するため、造船の規制が緩和され、リスボンとポルトには海上保険機関が設置された[要出典]

1383年にフェルナンド1世が没すると、後継者問題が生じてポルトガルは政治的危機に見舞われる。国内はベアトリスの母である摂政レオノールの派閥と、ペドロ1世の庶子であるアヴィス騎士団長ドン・ジョアンの派閥に分かれ、大貴族は前者、中小貴族と都市民は後者を支持した[21]。1383年12月にレオノールの派閥を支持するカスティーリャのフアン1世がポルトガルに侵攻すると、大法官アルヴァロ・パイスとリスボン市民の一部はドン・ジョアンをポルトガルの指導者に擁立し、ジョアンの擁立に連動して各地で民衆の暴動が発生した[26]。1384年1月にレオノールがサンタレンに進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を譲渡すると、国内はカスティーリャを支持する大貴族とジョアンを支持する下層民・富裕層・中小貴族に分かれて内戦が始まる。ジョアンの籠るリスボンはフアン1世の包囲を受けるが、カスティーリャ軍内でペストが流行したために包囲が解かれる[21]。1385年5月にコインブラで開催されたコルテスでジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として即位し、アヴィス王朝が創始された[21]

社会

他の西欧の国家と比べてポルトガル国王の王権は強く、多くの直属の家臣と最高裁判権を保有していた[19][27]1281年の王弟ドン・アフォンソの反乱以後、14世紀から15世紀にかけてポルトガルではしばしば国王の兄弟・息子が中央政府に対して反乱を起こしているが、一連の反乱は他のヨーロッパ諸国で発生した封建闘争との類似性を指摘されている[28]

財産と土地を所有する教会勢力、レコンキスタの過程で領地を獲得した騎士修道会は王権に対抗できるだけの力を持っていた[29]。大貴族(リコ・オーメン)は戦闘において自らの家臣を率いて国王に従軍することを義務付けられ、義務の見返りとして領地内での完全な裁判権、不輸不入権などの様々な特権を認められていた[30]アフォンソ2世以降の国王は貴族勢力・聖職者の抑制を試み、検地(インキリサン)と所領確認制(コンフィルマサン)を実施した。インキリサンとコンフィルマサンに抵抗する教会はポルトガル国王に破門の処分を下したが、なおも検地は続けられ、多くの聖俗貴族が王権に屈した[31]。貴族が有する封建的特権の証明の提出、ディニス1世によって作成された土地台帳により、領主権の伸張は抑制される[31]。また、貴族のうち中貴族(インファンサン)、騎士(カヴァレイロ)はポルトガルのレコンキスタの終了に伴い、没落していった[32]。貴族階級が必要とする多額の出費に対して1340年に奢侈禁止令が公布されたが、この法令は封建制度によって支えられていた貴族の基盤の揺らぎ、労働者階級の台頭への不安を表していると考えられている[20]

レコンキスタの過程で大きな役割を果たしたテンプル騎士団ホスピタル騎士団カラトラーバ騎士団アヴィス騎士団サンティアゴ騎士団などの騎士修道会は、レコンキスタ終了後もポルトガルの大荘園領主となった[31]。リスボンへの遷都によってポルトガル南部の重要性が増した後、ポルトガル王は南部に領地を持つ騎士団と協調を図りながら政策を展開した[14]1312年にテンプル騎士団が解散させられた後、国王はテンプル騎士団が保有する財産の流出を防ぐため、1317年にポルトガルに拠点を置く主イエス・キリスト騎士団を創設し、テンプル騎士団の財産を全て移管した[16]。ポルトガルのレコンキスタが終了した後も騎士団は荘園領主として19世紀に至るまで存続し、ポルトガル南部地域における大土地所有制の始まりとなった[33]

王家の信仰を集めるアルコバーサ修道院やコインブラのサンタ・クルス修道院など教会勢力も、寄進によって大荘園領主となった。1348年の黒死病の流行後、神の助けを求める多くの貴族や領主が教会や修道院に寄進を行い、教会勢力の元に多くの土地が集まった[22][34]。アフォンソ2世とアフォンソ3世は教会の権限を抑制するため、聖職者法廷の廃止と聖職者裁判の一般化を要求した[35]

モンデゴ川以北でのレコンキスタに参加した平民騎士は兵力の提供と引き換えに様々な特権を与えられ、彼らは後にオーメン・ボンと呼ばれるようになった[5]。辺境の防衛組織、征服地に形成された殖民の自治共同体はコンセーリョと呼ばれ、オーメン・ボンで構成される議会の指導下に置かれていた[36][37]。王領内の集落は全てコンセーリョとされ、税制、上級行政、集落内の生産手段の権限は国王が有していた[38]。国王、領主、高位聖職者ら土地の所有者は多くの人間を呼び寄せるために緩やかな統治を布く必要に迫られ、多くの特許状(フォラル)や特権を付与した[39]。都市や村落に成立したコンセーリョは国王や領主からフォラルを授与され、租税・裁判に関する権利と義務が制定された[31]1254年レイリアで開催されたコルテスには、有力コンセーリョの一員として初めて平民の代表者が参加した。平民階層には平民騎士のほかに自営の農民、荘園の労働に従事する農奴、手工業者、商人、日雇い労働者などの区分が存在していた[32]。農奴の多くは解放されるか、あるいは領主の元から逃亡し、殖民地や都市に移住した[40]

ポルトガルにはユダヤ教徒イスラム教徒のコミュニティが存在し、差別を受けながらも彼らは宗教・伝統的な習慣を継承していた[32][41]。中でも金融・医術に携わるユダヤ教徒はポルトガル社会に欠かせない存在だった[42]。一方、イスラム教徒はレコンキスタ終盤の急速かつ苛烈な弾圧を避けて国外に逃れた[40]。ポルトガルの征服地からイスラム教徒の領主は消えていき、郊外に移住したイスラム教徒には税金が課せられた[43]。レコンキスタから3世紀が経過した後、イスラム教徒のほとんどはキリスト教に改宗したが、農村では彼らの組織が継承されていく[44]


  1. ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、21頁
  2. ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、360頁
  3. ^ 金七『ポルトガル史』増補新版、45頁
  4. ^ 金七『ポルトガル史』増補新版、46
  5. ^ a b c d 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、361頁
  6. ^ ブールドン『ポルトガル史』、23頁
  7. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、362頁
  8. ^ マルケス『ポルトガル』1、70頁
  9. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、21-22頁
  10. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、363頁
  11. ^ マルケス『ポルトガル』1、92頁
  12. ^ 井上幸治編『南欧史』(世界各国史, 山川出版社, 1957年3月)、351頁
  13. ^ a b c d e f g 金七『図説 ポルトガルの歴史』、22頁
  14. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、105頁
  15. ^ マルケス『ポルトガル』1、107頁
  16. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、108頁
  17. ^ 金七『ポルトガル史』増補新版、55-56頁
  18. ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、366頁
  19. ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、364頁
  20. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、97頁
  21. ^ a b c d e f g 金七『図説 ポルトガルの歴史』、24頁
  22. ^ a b c d e 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、369頁
  23. ^ a b c 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、370頁
  24. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、111頁
  25. ^ ブールドン『ポルトガル史』、36頁
  26. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、371頁
  27. ^ マルケス『ポルトガル』1、80頁
  28. ^ マルケス『ポルトガル』1、106-107頁
  29. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、364-365頁
  30. ^ 金七『ポルトガル史』増補新版、51頁
  31. ^ a b c d 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、365頁
  32. ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、26頁
  33. ^ 金七『ポルトガル史』増補新版、53頁
  34. ^ マルケス『ポルトガル』1、99-100頁
  35. ^ ブールドン『ポルトガル史』、28頁
  36. ^ マルケス『ポルトガル』1、77頁
  37. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、361,365頁
  38. ^ マルケス『ポルトガル』1、75頁
  39. ^ ブールドン『ポルトガル史』、26頁
  40. ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、373頁
  41. ^ マルケス『ポルトガル』1、76頁
  42. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、26-27頁
  43. ^ マルケス『ポルトガル』1、73-74頁
  44. ^ マルケス『ポルトガル』1、74頁
  45. ^ マルケス『ポルトガル』1、87頁
  46. ^ ブールドン『ポルトガル史』、32頁
  47. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、366-367頁
  48. ^ a b マルケス『ポルトガル』1、85頁
  49. ^ 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、367-368頁
  50. ^ マルケス『ポルトガル』1、86頁
  51. ^ マルケス『ポルトガル』1、99頁
  52. ^ a b c 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、374頁
  53. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、27頁
  54. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、27-28頁
  55. ^ a b c 金七『図説 ポルトガルの歴史』、28頁
  56. ^ 金七『ポルトガル史』増補新版、65頁
  57. ^ a b 合田「ポルトガルの誕生」『スペイン・ポルトガル史』、375頁
  58. ^ 池上岺夫『ポルトガル語とガリシア語』(大学書林, 1984年1月)、76頁
  59. ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、29頁
  60. ^ a b c 金七『ポルトガル史』増補新版、64頁
  61. ^ a b 金七『ポルトガル史』増補新版、63頁
  62. ^ ブールドン『ポルトガル史』、33頁


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