オルガー・トフトイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/25 13:48 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動オルガー・トフトイ Holger Nelson Toftoy | |
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1956年11月ごろのトフトイ | |
渾名 | ミスター・ミサイル |
生誕 |
1902年10月31日 イリノイ州 マルセイユ |
死没 |
1967年4月19日(64歳没) ワシントンD.C. |
所属組織 | アメリカ陸軍 |
軍歴 | 1920 - 1960 |
最終階級 | 陸軍少将 |
除隊後 | 技術コンサルタント |
目次
経歴
出生から第二次世界大戦前
オルガー・ネルソン・トフトイは、イリノイ州マルセイユで、1902年10月31日に生まれた。彼の軍隊でのキャリアは、1920年にウィスコンシン大学の予備役将校訓練課程 (ROTC) の士官候補生から始まる。その2年目に、彼はアメリカ陸軍士官学校学生に任じられ、1926年に同校を卒業。基礎的な飛行訓練を受けた後、沿岸砲兵連隊に転任し砲兵中隊長としてハワイで3年務めた。その後、ウェスト・ポイント(陸軍士官学校)に戻り、そこで教官として5年間任務についていた。
1930年代の半ばに、トフトイはパナマ運河の太平洋側において機雷防衛を指揮するよう命じられ、1938年にはフォート・モンローの機雷貯蔵庫 (Submarine Mine Depot) に転属した。彼はそこで工業部と研究開発部のチーフとして6年務め、第二次世界大戦で広く使用された新型の管制機雷システムの設計・開発を指揮した。
第二次世界大戦期
1944年に、大佐であったトフトイは、陸軍兵器技術情報チームの本部長となる。陸軍兵器技術情報チームは、ヨーロッパで活動し、捕獲した敵の武器弾薬や装備を捜し出し、評価するために存在した。同チームは、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの最も優れた2つの兵器、V1飛行爆弾とV2ロケットに関する十分な報告書を作成し、現物の見本をアメリカ本国に送るよう命じられていた。これらの兵器は、ペーネミュンデでヴェルナー・フォン・ブラウン博士率いる科学者達によって開発されたものである。これらのロケットの捜索が進行中に、トフトイの副官であったジェームズ・P・ハミル少佐はハルツ山地へ逃亡したフォン・ブラウン博士とペーネミュンデ・チームのメンバーと連合軍に先んじてコンタクトをとることに成功した。
アメリカ陸軍がその兵器計画に誘導ミサイルを加える予定であることを知っていたトフトイは、まず本国に外電を打ち、ドイツの科学者の尋問と雇用のために彼らをアメリカに連行するよう進言するために単身ワシントンに向かった。当初トフトイは、アメリカのミサイル開発に必要な人材として、300人のドイツの科学者と技術者の渡航を要請したが、国防総省はこれを聞き入れず、100人までしか受け入れないと回答してきた。トフトイは更に食い下がったが、結局127人で妥協せざるをえなかった。このドイツ人科学者移送計画こそがペーパークリップ作戦と呼ばれる軍事作戦であり、フォン・ブラウンを含む科学者達は、1945年9月までにアメリカに到着した。トフトイもワシントンへ戻され、陸軍の誘導ミサイル計画に対する責任を任されることになった。
レッドストーン兵器廠司令官就任
1952年、トフトイはアラバマ州のレッドストーン兵器廠にある兵器ミサイル研究所 (Ordnance Missile Laboratories, OML) の所長に任命された。同研究所は陸軍誘導ミサイルとロケット開発の計画及び技術管理監督に対して責任を負っていた。その後2年間でレッドストーン兵器廠は陸軍の最も重要な技術センターのうちの1つと認められ、トフトイは、レッドストーン兵器廠を統率する初の将官として、今日の同工廠の土台を作った。トフトイが司令官であった1952年から1958年8月の期間に、レッドストーン兵器廠は陸軍のすべてのミサイルとロケットの研究開発、調達、生産、保管、維持及び支給に対して責任を負うようになった。
1958年3月に、トフトイは、レッドストーン兵器廠の陸軍兵器ミサイル・コマンド (Army Ordnance Missile Command, AOMC) の副司令将官となり、メリーランド州アバディーンのアバディーン性能試験場司令官に就任する1958年8月までレッドストーン兵器廠に滞在していた。
退役から死去
トフトイは、健康上の理由のため1960年に陸軍を退役したが、ノースロップ社とブラウン・エンジニアリング社のコンサルタントとして迎えられた。しかし、退役から7年後の1967年4月19日、4度の手術の甲斐なくワシントンD.C.のウォルター・リード陸軍医療センターで64歳でこの世を去った。トフトイはアーリントン国立墓地に葬られ、1969年にアメリカ陸軍武器科の栄誉の殿堂に名を連ねた。
人物
トフトイは同級生など身近な者達からはルディ (Ludy) というニックネームで呼ばれ、ハイスクールを卒業する前には旧式のガソリン・エンジンと自転車の部品から自動車を造るなど、すでにその才能の片鱗を見せ始めていた。彼の造った自動車は地元の新聞でも報道されたほどだった。また、芸術的センスもあり、レタリングや一コマ漫画(風刺漫画や時事漫画に代表されるもの)、グラフィック・デザインなども得意だった。また、トフトイは釣りが好きで、退役後の晩年はメキシコ湾に足繁く通っていたという。
トフトイは軍人であったが、軍人というよりも技術者としての熱意がアメリカ陸軍を動かした。彼は最初、ホワイトサンズ性能試験場でV2ロケットをはじめとするミサイルの試験をしていたが、より理想的な研究用地を求めていた。ミサイル開発の舞台となったハンツビルのレッドストーン兵器廠は、第二次世界大戦後の1947年から弾薬の生産を中止し、大戦で使い切れなかった砲弾の倉庫と自動車の工場となっていた。トフトイはそれに目を付け、国防総省に対して粘り強くミサイル開発の必要性を説き、公売に出される寸前の同工廠をミサイル開発に使用することを許可させた。
トフトイは、V2ロケットを元にしたレッドストーンを開発している最中も、ただのコピー品でなく、もっと様々な目的のミサイルを造りたいと願っていた。彼の熱意は次々に形となり、多くのミサイルを世に送り出したことで陸軍でもその名を知られるようになっていくが、トフトイは「それは自分のことである」とは決して自分から言わず、自分の功績に驕ることも慢心することもなかったという。ミサイル開発に執念とも呼べる情熱を傾けたが、正直な性格で常に謙虚な姿勢を貫いた親しみやすい人物であり、同僚、同期、部下、家族はもとよりレッドストーン兵器廠の地元のハンツビル市民にも愛された人物であった。
- 1 オルガー・トフトイとは
- 2 オルガー・トフトイの概要
- 3 功績
- 4 トフトイが関わったミサイル・ロケット
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