イギリス東インド会社 1757年以降のインド社会と東インド会社

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イギリス東インド会社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 01:18 UTC 版)

1757年以降のインド社会と東インド会社

1757年以降、イギリス東インド会社はベンガル地方を、ひいてはインド亜大陸を統治することとなった。そのため、東インド会社が選択した制度とその制度を選択した理由を理解し、当時のインド社会・経済を理解するために、詳述する。

行政制度と藩王国

イギリスによる植民地が開始されたインド亜大陸は、3つの管区に分割されて統治されていた。ベンガル、ボンベイ、マドラスの3管区である。1773年に制定されたノースの規制法によって、ベンガル管区の知事は、全インドを統括する総督に昇格された。

ベンガル管区の統括地域は、アワド太守からの領土割譲、第二次マラーター戦争の過程で獲得した領土などで占められ、19世紀には広大な領域となった[36]。そのため、1836年にはインド西方の領域は分離され、北西州となった。ボンベイ管区の領域は、1818年に終結した第3次マラータ戦争によって獲得された西部デカン、1847年に飛地として編入されたシンドであった。マドラス管区は、南東部のカーナティックが主な管轄地域であった[37]

3つの行政管区を除いた地域は、藩王を主権者とする藩王国とされた。全体として、インド亜大陸のほぼ3分の1を占め、数は500以上あった。面積、人口の規模は様々であり、外交権は保有しない点は共通とされたものの、内政の自主権に関しては、一様ではなかった。藩王を通しての間接統治はある程度、順調であったが、19世紀半ばに藩王の養子継承という問題が生じることとなった。会社は、藩王国を以下の3つに分類した[37]

  1. かつてどこの国にも服属しなかった藩王国。
  2. インドの王国ではなく、会社の活動領域の拡大によって初めて、服属した藩王国。
  3. 会社の力によって成立しえた藩王国。

このうち、後二者においては、インド総督ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイは養子継承を認めず、藩王国の取り潰しを実施した。藩王国の取り潰しは後にインド大反乱の遠因となった[37]

租税制度

ヘースティングズの改革により、東インド会社は、インド亜大陸における行政機構の性格を帯びるようになった。しかし、東インド会社による租税制度は、一律ではなく、それぞれの社会に適応する形で、別の言葉で言えばパッチワークのような統治形態をとらざるを得なかった。その理由はインド亜大陸の多様性に起因する。租税面で採用した制度は大別して、ザミーンダーリー制ライーヤトワーリー制の2つである。

ザミーンダーリー制とは、広大な土地を1つの単位として、地税額を競売で入札させ、最高額を入札した人物に徴税を請け負わせる制度のことである。採用された地域は、ベンガル、オリッサ、ビハールの計15万平方マイルである。徴税請負人をザミーンダールと呼び、最初期には彼らの徴税請負期間は5年間であったが、税収は一定しなかった。そのため、コーンウォリスが総督に就任した際、競売による徴税請負制度を廃止し、ザミーンダールを該当する地域の私的土地所有者とする永代ザミーンダーリー制度に移行した。その結果、毎年2860万ルピーを財源とすることが可能となった[37]

ライーヤトワーリー制が導入されたのは、主として、マドラスを中心とする南インドであった。もともと、ライーヤトワーリー制の起源は、南インドのバーラーマハル地域であり、当時の南インドの徴税制度を踏襲した制度であり、国家が土地所有者であり、土地を保有し納税する責任をライーヤトと呼ばれる耕作者が負う制度であり、中間的階層の排除を目的としていた。とはいえ、ライーヤトと呼ばれた耕作者は、一部の限定された有力農民だけの場合が多かった[37]。その後、ザミーンダーリー制が失敗した地域では、順次、ライーヤトワーリー制が導入されることとなり、マドラス、ボンベイの管区で導入された[37]。この他の地税制度として、村ベースのマハルワーリー制がある[38]

地税制度の違いを比較すると、ザミンダーリー制度が行われた地域は現在でも不平等レベルが高く、他の制度の地域と比べて現在でも公共財の普及が遅れている。また、識字率や政治への参加率が低く、農業技術の導入が遅れたため農業の生産性が低いという結果が出ている[39]

工業国から従属経済への転落

18世紀前半までのインドは軽工業輸出国でもあったが、産業革命を契機に輸出入が逆転する。貿易赤字を埋めるために有力な輸出品として残ったアヘンを中国に輸出する構図ができあがり、のちのアヘン戦争をよぶ引き金になった。またインドの工業生産は輸入品におされて立ち行かなくなり、専らイギリス商人・企業家の懐を潤す場となった。

17世紀から18世紀前半のヨーロッパ各国は、綿製品を買うためにアメリカ・イラン産の銀を代価に払う以外なかった。しかし19世紀になるとイギリスで産業革命が勃興し、コットン衣料工場がイギリスなどにつくられた。ナポレオン戦争時の大陸封鎖令はヨーロッパに輸出する途も失わせた。インドは既製品を輸出する地位から原材料供給地・兼・既製品輸入地となる。1820年前後には英印間の綿布交易において、輸出入が逆転した[37]。インド亜大陸内の交通インフラが整備され、内陸部にまでイギリス製品がゆきわたり、インドの第二次産業は壊滅的打撃を受けた。

当時のインドで輸出産品足りえたものは、綿布生糸アヘンインディゴ)、砂糖綿花といった一次産品に限定された。なかでも主としてベンガルで産するアヘンは有力な輸出品で、イギリス人商人はこれを中国()でさばいた。インド的には対中国貿易の貿易赤字の解消に貢献しただけではなく、インド貿易の30%を占めるまで成長した[37]。このアヘン輸出が後にアヘン戦争へと発展することになる。

藍は西インド諸島での生産が下火になったのにかわって、ベンガル各地で生産拡大が展開され、一時はインド最大の輸出産品に成長した。しかし1827年1847年の価格下落を経験し、インド経済の牽引役とはならなかった[37]。綿花もまた、グジャラート、アワドといった生産地域が会社の管轄に入ったことで輸出が拡大した産品であった。カルカッタ、ボンベイからイギリスや中国へ輸出された。ただ、藍にせよ綿花にせよ、プランテーション経営で生産されたわけではなかった[37]

予備兵力としての海軍機構

1613年、スーラトに小艦隊が編成された事を契機に、イギリス東インド会社は独自の海軍兵力を持つこととなった。その機能は、1687年にボンベイへと移されたが、その任務は、

  1. 東インド海上貿易の保護
  2. インド沿岸、ペルシャ湾、アラビア海インド洋諸島における水域調査
  3. インド、東南アジアにおける海賊船の討伐
  4. 軍隊の輸送及び海戦への参加

の4点に集約される[40]。その後、ボンベイは、周辺の地域がチーク材を産出することから、インドにおける造船業の拠点として発展を遂げた。このことにより、ボンベイは東インドにおける海上貿易・海上警備の拠点へと成長を遂げた。さらに、19世紀にはイギリス海軍の活動がインド洋のみならず、南シナ海へと広がる事により、従来の海上警備のみならず、インド沿岸藩王国間の紛争の除去、港湾・貯炭地の獲得、海図の作成の任務を帯びるようになった[40]

加えて1830年代のインド財政は逼迫したものであったため、本国イギリスに先駆けて、木造船を廃止し、全ての船を汽船に転換する事により、海軍組織の生き残りにかけ、それに成功した。汽船の活躍は、1839年アデン占領、1840年からのアヘン戦争1846年ニュージーランド遠征、1852年第二次ビルマ戦争1855年からのイギリス・ペルシャ戦争、1858年におけるインド大反乱と同時期に展開されたアロー戦争で確認する事ができる[40]


  1. ^ 浅田實(1989), p. 14.
  2. ^ a b 羽田正(2007), p. 74-82
  3. ^ a b c d 末廣幹 著「第二章 ブリタニアの胎動」、小野功生・大西晴樹 編『<帝国>化するイギリス』彩流社、2006年、53-88頁。ISBN 4-7791-1172-2 
  4. ^ 羽田(2007), p. 95-100.
  5. ^ 浅田(1989), p. 38-40
  6. ^ 浅田(1989), p. 71-84.
  7. ^ Barbara D. Metcalf, Thomas R. Metcalf 著、河野肇 訳『ケンブリッジ版世界各国史_インドの歴史』創土社、2006年、73-74頁。ISBN 4-7893-0048-X 
  8. ^ Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006) pp.75-78
  9. ^ 羽田(2007), p. 202-203.
  10. ^ Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳 (2006) pp.70-72
  11. ^ 羽田(2007), p. 204-206.
  12. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.197
  13. ^ 羽田(2007), p. 292-295.
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  15. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.272-273
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  17. ^ 羽田(2007), p. 314-316.
  18. ^ a b c d e f g Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006) pp.86-134
  19. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.301
  20. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.277
  21. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.207
  22. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.208
  23. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.297
  24. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.280
  25. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.281
  26. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.282
  27. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.283
  28. ^ 藤井毅 著「第7章_イギリス東インド会社における植民地化」、小谷汪之 編『南アジア史_2』山川出版社、2007年。ISBN 978-4-634-46209-0 
  29. ^ a b 熊谷 2018, pp. 186–187.
  30. ^ 熊谷 2018, pp. 188–191.
  31. ^ Charter
  32. ^ 浅田(1989), p. 221-222.
  33. ^ 磯淵猛『紅茶事典』新星出版社、2005、p.185
  34. ^ 杉田 2009, pp. 180–182.
  35. ^ 中野 & 清水 2019, 第7章.
  36. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.296
  37. ^ a b c d e f g h i j 水島司 著「第8章_イギリス東インド会社のインド支配」、小谷汪之 編『南アジア史_2』山川出版社、2007年、295-338頁。ISBN 978-4-634-46209-0 
  38. ^ バナジー & アイヤー 2018, p. 189.
  39. ^ バナジー & アイヤー 2018, pp. 191–192, 215–217.
  40. ^ a b c 横井勝彦『アジアの海の大英帝国』講談社学術文庫、2004年、211-223頁。ISBN 978-4-06-1596412 
  41. ^ a b 浅田(1989), p. 178-189






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