アンドレア・トゥルー アンドレア・トゥルーの概要

アンドレア・トゥルー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/15 18:26 UTC 版)

経歴

テネシー州ナッシュビルに生まれる。地元のカトリック教区にある聖セシリア・アカデミー英語版寄宿舎で厳格な少女時代を過ごした[1][2][3]1968年[2]に映画スターになることを夢見てニューヨークに出るが、役者としては芽が出ずポルノ女優の道を選ぶ[1][2]1972年から1976年まで50作以上のポルノ映画に出演した[3]

その間の1975年ジャマイカへ渡り、現地の不動産会社CMに出演するが、当時のジャマイカでは国外への外貨持ち出しが禁止されていたため、ギャラを持って帰国できないトラブルに見舞われる[1][2]。同国が米国から受けた経済制裁に対する報復措置によるものであった[2]。そこでアンドレアは、現金の代わりにジャマイカでレコーディングしたマスターテープであれば、米国に待ち帰りが可能であるとアイデアを搾り出し[1][2]、友人の音楽プロデューサーグレッグ・ダイアモンド英語版に連絡を取る。すぐさま原曲を書き上げたグレッグは、ニューヨークインストゥルメンタルを録音するとジャマイカへ向かい、そこでアンドレアと作詞した歌や現地ミュージシャンの演奏をトラックに加え、編曲・レコーディングを終えた。アンドレアとグレッグが持ち帰ったマスターテープは、さらにディスコ・ミックスのカリスマトム・モールトン英語版の目に留まり、彼によってミキシングが施された12インチシングル盤が完成、1976年1月にリリースされた。こうして生まれたディスコソング「モア・モア・モア」は、ポップ・チャートで全米4位を記録するなど大ヒットとなった。なお、同曲はサマンサ・フォックス1993年)、バナナラマ(1993年)、レイチェル・スティーヴンス2004年)、ダニー・ミノーグ2008年)などによって、幾度となくカバーされ歌い継がれている[1][3]

ところがアンドレアは、3枚目のアルバムを出したあと喉に腫瘍ができ、手術を受けるが完治せず歌手活動を断念している。その後はニューヨークを去ってフロリダへ移り住み、占星術薬物依存症カウンセリングに携わるなどして過ごしたが、2011年11月7日、ニューヨーク州キングストンの病院で死去した。満68歳没[1][2][4]

ディスコグラフィー

脚注




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