門前町
鳥居前町(門前町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 04:17 UTC 版)
門前町に相当する鳥居前町としては、内宮は宇治、外宮は山田がある。中世には、町人層である地下人や神役人(じやくにん)が台頭し、旧来の神職層である神人(じにん)に対抗してそれぞれ自治都市を形成した。宇治は宇治会合、山田は山田三方と呼ばれる自治組織を形成し、年寄衆などの有力地下人が会合所を設け政務をとり、合議制により町が運営された。山田三方は、14世紀前半に成立した六斎市である岩渕、坂、須原の三つの「方」が中心となって成立し、中世末期頃には組織独自の花押型の印章を用いて、市場における魚座や米座の加入認証業務を行うなど当該地域における商業行為にも強い影響力を持ち、江戸時代に入ると山田羽書という独自の紙幣を発行するなど、商業都市として栄えた。伊勢地域は豊臣政権や徳川政権においても検地が行なわれなかったことから、宇治山田は幕藩体制が成立する近世に入っても中世的な自治組織が引き継がれ、年寄が会合所で政務をとり、裁判権、警察権も自治組織が握った。寛政年間以降は、山田奉行による統制が強まり、自治も限定的となったが、一般の近世村落に比べれば年貢負担は軽いものであった。宇治と山田はしばしば対立し、明徳3年(1392年)、正長2年(1429年)、永享13年(1441年)、嘉吉2年(1442年)、文安6年(1449年)に衝突があった。特に文明18年(1487年)に起きた宇治山田合戦は、伊勢国司の北畠氏が宇治側に加担して介入し、山田が炎上して外宮まで類焼に及ぶ被害を受け、山田側も宇治を攻撃し内宮神殿以外が全焼する大被害をもたらす争乱となった。 また、両地区の間にある古市は江戸時代、参拝後に精進落としとして立ち寄る人が増えて遊廓などが立地する歓楽街を形成した。古市は、もともとは人家のない山道であったが、寛永年間ごろから歌舞伎、浄瑠璃などの芝居小屋が立ち並ぶようになった。古市の歌舞伎小屋は、上方の歌舞伎役者の登竜門とされ、『新撰古今役者大全』には三都以外の地方芝居では古市が全国一とされた。17世紀後半からは遊郭も勃興し、備前屋をはじめとして70軒近い鼓楼が立ち並んだ。遊郭では、長唄風の俗謡に振り付け遊女が総踊りを見せる「伊勢音頭」が聞かれた。その他、見世物の興行も盛んで、籠細工、曲独楽、生人形などが興行され、ラクダ、トラ、ゾウなどの異国動物の見世物も興行された。古市は、「聖と俗」が混在していたかつての伊勢参詣における「俗」を代表する場であった。 3地区とも、太平洋戦争末期の宇治山田空襲で古い建物の多くが焼失した。戦後、観光バスが鳥居近くに直行するようになり、宇治も山田も普通の市街地や住宅地と化した。宇治では1993年の式年遷宮を機に、おかげ横丁など観光地らしい商店街としておはらい町を整備。伊勢市駅前など外宮周辺でも2013年の式年遷宮を機に観光客向けの店舗開業などが進んだ。 宇治、山田、古市の3地区の他に、大量の参宮客が宿泊した宇治山田へ物資を供給する一大問屋街として成長し、「伊勢の台所」とまで呼ばれた河崎や、伊勢と東国を結ぶ太平洋海運の拠点として機能し、中世末期には大湊老若などの自治組織を形成して廻船業の要となった大湊も非常に栄えた。小俣も、近世以前は宮川に橋がかかってなかったため、川止めになった際に参宮人がこの地で宿泊を余儀なくされたことから宿場として発達した。二見興玉神社や神宮の御塩殿が設置された二見も、参宮者の多くがこの場所まで足を伸ばしたことから、宿泊業や土産物業が発達した。このように、伊勢神宮とともに伊勢の町々も発達していった。
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