宇治山田空襲
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宇治山田空襲(うじやまだくうしゅう)は、第二次世界大戦末期、1945年(昭和20年)にアメリカ軍により行われた三重県宇治山田市(現・伊勢市)への空襲(戦略爆撃)のことである。日本側も志摩半島もアメリカ軍の上陸地の一つとして想定し軍を駐屯させていた[1][2]が、この爆撃について、当時の日本報道は専ら、「神都」と称され国家的重要都市であった宇治山田を攻撃することで日本人の戦意を低下させる為のものであることを前提にした形で米側を非難している[3]。1月14日の伊勢神宮[注 1]豊受大神宮(外宮)への爆弾投下を皮切りに6度の大規模な攻撃を受け[6]、市街地の5割ないし6割を焼失した[注 2]。
注釈
- ^ 伊勢神宮は正式名称を「神宮」と称し、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の2つの正宮に別宮・摂社・末社・所管社と呼ばれる宮社が付属し、合計125社から構成される[4][5]。本文中で取り上げる神社は、須原大社を除いて伊勢神宮を構成する125社に含まれる。詳細は「伊勢神宮」および「神宮125社の一覧」を参照。
- ^ 『伊勢市史』[7]および『日本地誌 第13巻』の記述[8]。三重県庁ウェブサイト内では「市内の約60%を焼失」と記している[6]。
- ^ 三菱重工業名古屋航空機製作所を爆撃した62機のうちの3機が帰途に宇治山田市へ襲来した[18]。
- ^ 三重県庁ウェブサイト内の記述による[6]。三重県最初の空襲は1942年(昭和17年)4月18日に行われたドーリットル空襲で、四日市市と桑名郡長島村(現・桑名市)が機銃掃射を受けている[20]。
- ^ 『伊勢市史』の記述[19]。『宇治山田警察署沿革誌』によれば重傷3人、軽傷14人。
- ^ 五丈殿・九丈殿は雨天時のお祓いや摂社・末社の遥祀に利用される建物であり、神楽殿は祈祷を行う建物[21]、斎館は神職が参籠する建物である[22]。
- ^ 詳細を記すと、的矢湾以南を歩兵第442連隊、的矢湾以北から宮川以東を歩兵第443連隊、宮川以西の明野ヶ原を歩兵第444連隊が担当した[2]。
- ^ 詳細を記すと、鳥羽町周辺を第13突撃隊、的矢湾・英虞湾・五ヶ所湾周辺を第19突撃隊が担当し、震洋・回天・蛟竜・海龍の格納庫を各地で建造中に終戦を迎えた[28]。
- ^ 『伊勢市史』の記述では2月14日に油脂焼夷弾と小型爆弾が投下され、山林などで火災が発生したが、被害は軽微だったとしている[19]。
- ^ 『伊勢市史』の記述[7]。『宇治山田警察署沿革誌』は4,859戸の焼失、死者75人、負傷者111人と記載[36]。
- ^ 御垣内(みかきうち)とは、外宮正殿を取り囲む4つの玉垣のうち、最も外側にある板垣よりも内側の神域である[37]。
- ^ 宿衛屋とは、神楽・御饌の取り次ぎ、大麻・守祓の授与、参宮証印の押捺などを取り扱う建物である[42]。
出典
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- 1 宇治山田空襲とは
- 2 宇治山田空襲の概要
- 3 脚注
- 4 外部リンク
- 宇治山田空襲のページへのリンク