震災時の気仙沼向洋高校とは? わかりやすく解説

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震災時の気仙沼向洋高校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 06:12 UTC 版)

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」の記事における「震災時の気仙沼向洋高校」の解説

[全画面表示] 気仙沼向洋高校および周辺施設位置本節出典は、特記ない限りによる) 震災発生した2011年平成23年3月11日気仙沼市岩井崎近くにあった気仙沼向洋高校では、この日が平成22年度最後の授業であった同月1日卒業式が行われていたため3年生学校におらず、登校していたのは1年生2年生あわせて220名の生徒であった授業正午近く終わりその後部活動補習ホームルームで約170名が学校残っていた。教職員9日実施され一般入試学力検査採点終え合格発表向けた準備進めていた。 当時生徒教室がある北校舎大規模改修工事最中で、生徒たち校庭設置されプレハブ仮設校舎使用していた。また、職員室がある南校舎は、入試関連業務のため当日午後から生徒立ち入り禁止されている状況であった14時46分、三陸沖震源とする地震発生し気仙沼市内では震度5強から6弱の揺れ観測した揺れ強さ校内プール大きく波打ち電線がうねるほどであった野球部員たちが練習していた野球場では地割れ起き、膝の高さまで噴き出した地震受けて屋外にいた生徒たちのほか、プレハブ校舎内や屋内運動場生徒たちも外に出てきて校庭避難した南校舎1階事務室では、地震発生後すぐに教職員20名が自然と集まり情報収集当たった地震情報得ようとしたテレビ停電のため映らなかったが、教員ひとりが持っていたワンセグ携帯電話により、付近に6 - 7メートル津波予想されているという情報得られた。このため生徒たち教職員27名の誘導避難開始した地震発生から5分後のことであった海岸から約500メートル海抜1メートル低地にあった同校では、火災発生場合地震発生の場合の2通り避難計画定めていた。本来、地震発生時場合校舎4階避難することとされていたが、上記のような事情もあり、火災場合避難場所として指定されていた近隣地福寺海抜8メートル)に移動することになった生徒のうち数名腰を抜かして動けない状態だったため、教員自家用車乗せて運んだ部活中だったためにTシャツ短パンという軽装のまま学校を後にした生徒もいた。 同校から約300メートル地福寺は、チリ地震の際も影響受けておらず安全な場所とみなされており、また境内広く生徒たち集合させるのに都合のよい場所であった。しかし、寺に到着して生徒たち点呼取ろうとしたところで、教職員の中から「この場所も危険だ。もっと高い場所避難すべき」と強く主張する意見あがった。寺の住職も同じ考えであったことから、生徒たちはさらに1.2キロメートルほど離れた陸前階上駅海抜16メートル)へ向かうことになった。これは、寺よりも高い場所で、かつ生徒たち全員集合できるスペース検討した結果であった余震続き落下物の危険もある状況であったため、教職員自然発生的に列の先頭中間最後尾分かれて生徒たち誘導していた。駅までの間、教職員地域住民に会うたび声をかけて避難するよう促したが、住民たちの多く地震後片付け忙しく避難動き見せなかった。生徒たち陸前階上駅到着したのは、地震発生から20後であった。 そのころ校内では、生徒残っていないことを確認後、指導要録入試データ事務室内の重書類などを、残った教職員南校舎3階まで運び上げていた。また、情報部の職員機転により、2階印刷室からサーバ機器運び出された。3階選ばれたのは、前年起きたチリ地震の際の津波では3階安全圏だったからという管理職判断よるものであった。ところが、その後入った情報で、津波の高さは10メートル超える規模であることがわかった管理職指示教職員たちが荷物をさらに上の4階運び直していたところで、津波第1波校舎到達した地震発生から37後のことであった一方陸前階上駅では、生徒たち駅前広場集まって腰を下ろしていたところだった。その時、駅の山側南北に通る国道45号方面より「何をしている! そこまで津波来ているんだぞ」と叫ぶ住民怒声聞こえた教職員ひとりが国道上がり様子を見に行ったところ、実際に国道南方面では津波横切って山側流れ込んでいた。これを受けて教職員生徒たちをまず国道へ、そしてさらに数百メートル先の階上中学校海抜32メートル)まで避難させた。恐怖のあまり動けなくなる生徒もおり、教職員が肩をかついだ背負ったりして連れていった。階上中学校生徒たち着いたのは、地震発生から45分後であった。校舎からの総移動距離は2キロメートル超えたが、避難の様子撮影するほどの余裕誰にもなく、写真映像記録していた者はいなかった。 そして津波襲来した校内では、教職員および北校舎改修工事当たっていた26名の工事関係者が、南校舎屋上避難していた。普段施錠されている屋上だったが、職員ひとりがマスターキー持ってきていたため出ることができた。津波第1波腰上ほどの高さだったが、続いてやってきた第2波第3波は、さながら黒い巨大な壁のようであり、教職員たちの目視では校舎飲み込まんばかりの高さであった教職員一部には怖いと泣き叫ぶ者や、もはや逃げられない覚悟した者もいたが、一方で少しでもさらに高いところへ避難しようと、足場組んで屋上鉄塔階段室の上に登った者もいた。しかし、校舎手前にあった鉄筋造り冷凍工場などの建物が盾になる形で津波勢い和らげたため、浸水4階建て校舎4階床上1メートルほどの高さ(地上から約12メートル)で留まった。校舎にあった屋内運動場は、屋根紙屑ようにくしゃくしゃに剥ぎ取られ、また津波直撃した冷凍工場押し流されてきて校舎4階角のベランダ衝突したものの、教職員工事関係者たちのいた屋上被害避けることができた。 難を逃れた教職員工事関係者たちは、日が暮れるころになって波が引いたのを見計らい南校舎比べて被害小さかった北校舎移動し外したカーテンくるまるなどして暖を取りながら一夜明かした同校避難していた近隣住民3名、家と一緒に同校敷地内まで流されてきた住民2名もあわせ、地震発生から約20時間後までに全員救出された。生徒たち当初避難先だった地福寺津波流され全壊したが、生徒たち誘導教職員はみな階上中学校避難し無事であった結果的に地震発生時校内にいた生徒教職員たちは、ひとりも犠牲者を出すことなく全員生存した校舎3階留め置かれ書類流失したものの、津波到達前に4階まで運ばれていた書類は、この階にあったキャビネットの上部に退避させていたため散逸免れたまた、書類データ保管場所多く教職員把握していたため迅速に運び出せたことや、4階担当していた職員地震発生後にこの階のすべての部屋解錠していたことも幸いした当時同校勤務していた教員記録では、人的被害が出なかった要因として、屋上への津波到達冷凍工場建物直撃いずれも避けられたなどの幸運な偶然が作用したことのほか校舎が海に近かったために津波対す生徒教職員危機意識高かったことや、教職員それぞれの立場打ち合わせなしに臨機応変動き事前マニュアルをも超える行動をとったことなどを挙げ、これらが命を守る結果つながった推測している。

※この「震災時の気仙沼向洋高校」の解説は、「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」の解説の一部です。
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