震災時の気仙沼向洋高校
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「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」の記事における「震災時の気仙沼向洋高校」の解説
[全画面表示] 気仙沼向洋高校および周辺施設の位置 (本節の出典は、特記ない限りによる) 震災が発生した2011年(平成23年)3月11日、気仙沼市の岩井崎近くにあった気仙沼向洋高校では、この日が平成22年度最後の授業日であった。同月1日に卒業式が行われていたため3年生は学校におらず、登校していたのは1年生・2年生あわせて約220名の生徒であった。授業は正午近くに終わり、その後は部活動や補習、ホームルームで約170名が学校に残っていた。教職員は9日に実施された一般入試学力検査の採点を終え、合格発表に向けた準備を進めていた。 当時、生徒の教室がある北校舎は大規模改修工事の最中で、生徒たちは校庭に設置されたプレハブの仮設校舎を使用していた。また、職員室がある南校舎は、入試関連業務のため当日は午後から生徒の立ち入りが禁止されている状況であった。 14時46分、三陸沖を震源とする地震が発生し、気仙沼市内では震度5強から6弱の揺れを観測した。揺れの強さは校内のプールが大きく波打ち、電線がうねるほどであった。野球部員たちが練習していた野球場では地割れが起き、膝の高さまで水が噴き出した。 地震を受けて、屋外にいた生徒たちのほか、プレハブ校舎内や屋内運動場の生徒たちも外に出てきて校庭に避難した。南校舎1階の事務室では、地震発生後すぐに教職員約20名が自然と集まり情報収集に当たった。地震の情報を得ようとしたテレビは停電のため映らなかったが、教員のひとりが持っていたワンセグ携帯電話により、付近に6 - 7メートルの津波が予想されているという情報が得られた。このため、生徒たちは教職員27名の誘導で避難を開始した。地震発生から5分後のことであった。 海岸から約500メートル、海抜1メートルの低地にあった同校では、火災発生の場合と地震発生の場合の2通りの避難計画を定めていた。本来、地震発生時の場合は校舎の4階に避難することとされていたが、上記のような事情もあり、火災の場合の避難場所として指定されていた近隣の地福寺(海抜8メートル)に移動することになった。生徒のうち数名は腰を抜かして動けない状態だったため、教員が自家用車に乗せて運んだ。部活中だったためにTシャツ・短パンという軽装のまま学校を後にした生徒もいた。 同校から約300メートルの地福寺は、チリ地震の際も影響を受けておらず安全な場所とみなされており、また境内が広く生徒たちを集合させるのに都合のよい場所であった。しかし、寺に到着して生徒たちの点呼を取ろうとしたところで、教職員の中から「この場所も危険だ。もっと高い場所に避難すべき」と強く主張する意見があがった。寺の住職も同じ考えであったことから、生徒たちはさらに1.2キロメートルほど離れた陸前階上駅(海抜16メートル)へ向かうことになった。これは、寺よりも高い場所で、かつ生徒たちが全員集合できるスペースを検討した結果であった。 余震が続き、落下物の危険もある状況であったため、教職員は自然発生的に列の先頭・中間・最後尾に分かれて生徒たちを誘導していた。駅までの間、教職員は地域住民に会うたび声をかけて避難するよう促したが、住民たちの多くは地震の後片付けに忙しく避難の動きを見せなかった。生徒たちが陸前階上駅に到着したのは、地震発生から20分後であった。 そのころ校内では、生徒が残っていないことを確認後、指導要録や入試のデータ、事務室内の重要書類などを、残った教職員が南校舎3階まで運び上げていた。また、情報部の職員の機転により、2階の印刷室からサーバ機器も運び出された。3階が選ばれたのは、前年に起きたチリ地震の際の津波では3階は安全圏だったからという管理職の判断によるものであった。ところが、その後入った情報で、津波の高さは10メートルを超える規模であることがわかった。管理職の指示で教職員たちが荷物をさらに上の4階に運び直していたところで、津波の第1波が校舎に到達した。地震発生から37分後のことであった。 一方、陸前階上駅では、生徒たちが駅前広場に集まって腰を下ろしていたところだった。その時、駅の山側を南北に通る国道45号方面より「何をしている! そこまで津波が来ているんだぞ」と叫ぶ住民の怒声が聞こえた。教職員のひとりが国道に上がり様子を見に行ったところ、実際に国道の南方面では津波が横切って山側に流れ込んでいた。これを受けて教職員は生徒たちをまず国道へ、そしてさらに数百メートル先の階上中学校(海抜32メートル)まで避難させた。恐怖のあまり動けなくなる生徒もおり、教職員が肩をかついだり背負ったりして連れていった。階上中学校に生徒たちが着いたのは、地震発生から45分後であった。校舎からの総移動距離は2キロメートルを超えたが、避難の様子を撮影するほどの余裕は誰にもなく、写真や映像を記録していた者はいなかった。 そして津波が襲来した校内では、教職員および北校舎の改修工事に当たっていた26名の工事関係者が、南校舎の屋上に避難していた。普段は施錠されている屋上だったが、職員のひとりがマスターキーを持ってきていたため出ることができた。津波の第1波は腰上ほどの高さだったが、続いてやってきた第2波・第3波は、さながら黒い巨大な壁のようであり、教職員たちの目視では校舎を飲み込まんばかりの高さであった。教職員の一部には怖いと泣き叫ぶ者や、もはや逃げられないと覚悟した者もいたが、一方で少しでもさらに高いところへ避難しようと、足場を組んで屋上の鉄塔や階段室の上に登った者もいた。しかし、校舎手前にあった鉄筋造りの冷凍工場などの建物が盾になる形で津波の勢いを和らげたため、浸水は4階建て校舎4階の床上1メートルほどの高さ(地上から約12メートル)で留まった。校舎横にあった屋内運動場は、屋根が紙屑のようにくしゃくしゃに剥ぎ取られ、また津波が直撃した冷凍工場が押し流されてきて校舎4階角のベランダに衝突したものの、教職員・工事関係者たちのいた屋上は被害を避けることができた。 難を逃れた教職員・工事関係者たちは、日が暮れるころになって波が引いたのを見計らい、南校舎に比べて被害の小さかった北校舎に移動し、外したカーテンにくるまるなどして暖を取りながら一夜を明かした。同校に避難していた近隣住民3名、家と一緒に同校敷地内まで流されてきた住民2名もあわせ、地震発生から約20時間後までに全員が救出された。生徒たちの当初の避難先だった地福寺は津波で流され全壊したが、生徒たちと誘導の教職員はみな階上中学校に避難し無事であった。結果的に、地震発生時に校内にいた生徒・教職員たちは、ひとりも犠牲者を出すことなく全員が生存した。 校舎3階に留め置かれた書類は流失したものの、津波到達前に4階まで運ばれていた書類は、この階にあったキャビネットの上部に退避させていたため散逸を免れた。また、書類やデータの保管場所を多くの教職員が把握していたため迅速に運び出せたことや、4階を担当していた職員が地震発生後にこの階のすべての部屋を解錠していたことも幸いした。 当時同校で勤務していた教員の記録では、人的被害が出なかった要因として、屋上への津波到達・冷凍工場建物の直撃がいずれも避けられたなどの幸運な偶然が作用したことのほか、校舎が海に近かったために津波に対する生徒・教職員の危機意識が高かったことや、教職員がそれぞれの立場で打ち合わせなしに臨機応変に動き、事前のマニュアルをも超える行動をとったことなどを挙げ、これらが命を守る結果につながったと推測している。
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