鋼鉄協約とは? わかりやすく解説

鋼鉄協約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 15:14 UTC 版)

鋼鉄協約(こうてつきょうやく、ドイツ語: Stahlpaktイタリア語: Patto d'Acciaio)は、イタリア王国ナチス・ドイツの合意協約。正式名称はドイツ・イタリア間の友情と同盟に関する協約(英:Pact of Friendship and Alliance between Germany and Italy)。1939年5月22日にイタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノとドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップによって調印、署名された。


  1. ^ a b c d e f A translation of the text of the Pact of Steel attributed to Office of United States Chief of Counsel for Prosecution of Axis Criminality, Nazi Conspiracy and Aggression, 8 vols. and 2 suppl. vols. (Government Printing Office, Washington, 1946-1948), V, 453, Doc. No. 2818-PS. Translation hosted by Richard H. Immerman, Department of History, Temple University.


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鋼鉄協約

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ベニート・ムッソリーニ」の記事における「鋼鉄協約」の解説

詳細は「鋼鉄協約」を参照 国際連盟脱退スペイン内戦防共協定ミュンヘン会談ヨーロッパにおける独伊両国の急接近を示す出来事続いたにも関わらず、公式に独伊同盟を結ぶというヒトラー提案についてはムッソリーニ難色示し続けた。これは利害違い加えて他国圧倒する工業国であるドイツ後進的な農業国であるイタリアとの軍事力差が遠因であった政権の座についてから15年上もの月日経過して独裁体制長期化する中、ムッソリーニイタリア経済軍備深刻に衰退している状況憂慮するようになっていた。 イタリア元来基本的に農業国であって経済規模大きさに対して工業生産力が低く工業化重点化という意味では小国であるチェコスロバキアハンガリーの方がより恵まれた状態にあった工業力面の不足については、近代輸送の要である自動車の生産数が例に挙げられる大戦前後フランスもしくはイギリス本国自動車生産数が約250台であるのに対してイタリア自動車生産数は約37台に過ぎず英仏15%程度に留まっていた。これはイタリア軍英仏軍に比べ部隊機械化大きく遅れを取らざるをえないことを意味した戦争行為維持必要不可欠戦略物資欠乏深刻な問題であり、イタリア半島及び大陸部資源極めて乏しく、かつイギリスのように有力な植民地保有していなかった。戦争本格化した1940年度のイタリア領における資源算出石炭440トン/鉄鉱石120トン/石油1万トンで、年間鉄鋼生産210トンであった対する主要参戦国の内、イギリス石炭2億2,4003,000トン/鉄鉱石1,7007,000トン/石油1,100万9,000トン年間鉄鋼生産は1,300トンドイツ石炭3億6,4008,000トン/鉄鉱石2,9005,000トン/石油800トン年間鉄鋼生産は2,100万5,000トンにも上った上記理由からイタリア王国軍の陸空軍旧式化した兵器更新できず兵員召集訓練不十分な状態に置かれ燃料問題虎の子戦力である海軍運用すら限定的なものにした。軍需調査担当大臣カルロ・ファグブロッサ(英語版)は軍需生産力十分に確保できるのは1949年になるとする試算纏めている。報告は後に修正されたが、それでも「1942年10月まで大規模戦争不可能である」と結論している。1939年5月22日ヒトラーからの要請に応じて独伊間で10年間の国家同盟(鋼鉄協約、血の盟約)が締結されたが、同時にムッソリーニ軍備面の協力関係については準備必要性説明し1943年までの共同参戦義務延期についてヒトラー同意得ている。イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世イタロ・バルボ空軍大臣ガレアッツォ・チャーノ外務大臣などから独伊同盟反対する声が挙がったことや、鋼鉄協約より先に英伊中立条約締結されていたこともあり、大戦初期イタリア局外中立宣言へと繋がった。 特にチャーノはヒトラー過激な侵略思想警戒感抱いており、ポーランドへの領土欲で世界大戦引き起こさないように直接要請しているが、むしろヒトラーダルマチア領有するユーゴスラビアへのイタリアによる侵攻をチャーノに提案する有様であった

※この「鋼鉄協約」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
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