西欧からの新しい潮流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:42 UTC 版)
20世紀初頭、約4年にもわたりヨーロッパ中の人々を戦禍に巻き込んだ第一次世界大戦期の混乱状態にあったヨーロッパ諸国では、フォーヴィスム、キュビスム、未来派、表現主義、ダダイズム、シュールレアリスム、抽象主義、シュプレマティスム、ネオ・プラスティシズム、構成主義など、既成の価値観や形式を否定するアバンギャルド系の芸術運動が隆盛となっていた。 1918年(大正7年)の世界大戦終結後、連合国側にいた日本にも、そうしたヨーロッパのダダイスム、ドイツ表現主義などの前衛芸術理論が各分野に盛んに移入されてきていた。さらに、その前年にロシアで起った共産主義革命(1917年)により、本格的にマルクス主義思想も流入し、日本初の「日本社会主義同盟」が1920年(大正9年)12月に結成された。 当時の日本文学界にも、これら欧州の思潮を模倣した前衛芸術や革命運動と連動する形で、旧来の自然主義文学や静的な写実主義とは違った、新しい方法論を模索する動きが起っていた。大正期中頃の近代文学は、自由競争社会における「搾取する自由」や、人々が反目し合う「醜いエゴイズム」の問題を解決する術を模索しながらも一つの行き詰まり期にもさしかかっていた。 自然主義文学が全盛期だった頃には、江戸文芸の流れをくむ泉鏡花の幻想性やフィクション性が冷遇されていたが、大正期は、戯曲から出発した菊池寛や久米正雄らも出現し、谷崎潤一郎など多くの作家が戯曲にも旺盛な意欲をみせていた。こうした戯曲の隆盛も旧来の自然主義文学に対する反動的な流れの一つであった。 新興芸術の映画の世界にも小説家が関与する動きもあり、大正活映の文芸顧問となった谷崎潤一郎は1920年(大正9年)の映画『アマチュア倶楽部』の脚本を書いた。翌年1921年(大正10年)にはドイツ表現主義の斬新な映画『カリガリ博士』が日本でも上映され、作家たちに大きな刺激を与えた。 前衛芸術の未来派は、イタリアの詩人・マリネッティの「未来派宣言」(『ル・フィガロ』1909年2月20日掲載)をいち早く森鷗外が明治期に翻訳・紹介し、高村光太郎も未来派に関する論を翻訳していたが、そのマリネッティを模倣する形で、大正期の詩人・平戸廉吉が「日本未来派宣言運動」と題するパンフレットを1921年(大正10年)12月に日比谷の街頭で撒布した。 この平戸廉吉の前衛運動に感化され、萩原恭次郎・岡本潤・川崎長太郎・壺井繁治らによる「詩とは爆弾である」と標榜したアバンギャルド系雑誌『赤と黒』が1923年(大正12年)1月に創刊され、高橋新吉も同年2月に『ダダイスト新吉の詩』を出版する流れがあった。高橋新吉と交流した吉行エイスケも雑誌『ダダイスム』を前年1922年(大正11年)12月に創刊し、会員制カフェー「ダダ」設立などの動きもあった。 一方、マルクス主義の社会革命運動に支えられた革命文学(プロレタリア文学)の動きとしては、1921年(大正10年)2月に、農民の労働を尊重した雑誌『種蒔く人』が小牧近江・金子洋文・今野賢三らにより秋田県土崎港町から創刊された。10月には東京版『種蒔く人』も創刊され、同人に佐々木孝丸・村松正俊・柳瀬正夢などが加わった。 この頃、東京帝国大学文学部の学生だった川端康成は、1921年(大正10年)2月に同級生ら4名と第6次『新思潮』を創刊していた。やがて川端は、英文科の時の同級で当時西欧のダダイズムや表現派の紹介をしていた北村喜八から様々な話を聞き、新たな文芸を開拓すべく「新表現と新精神の創造」の方向に舵を切ろうとしていた。 喜八の下宿に寄り、表現派、ダダの話。独逸新画集見せらる。思ひ切つた裸体画あり。文壇の話。喜八、打明け話をする時の如き親しみを現はす。(中略)喜八と話し、新表現と新精神の創造を思ふ。一転して新境を拓くべし。岐阜一件の如き早く書き終へ、やがて新しき方に向ひたし。 — 川端康成「日記 大正12年1月3日」 川端の第一高等学校時代の後輩だった村山知義も、1923年(大正12年)6月に結成したグループ「マヴォ」で構成派(構成主義)の旗手として多彩な活躍をみせ、翌年の1924年(大正13年)7月に村山主導により美術系前衛雑誌『MAVO』を創刊した。
※この「西欧からの新しい潮流」の解説は、「文藝時代」の解説の一部です。
「西欧からの新しい潮流」を含む「文藝時代」の記事については、「文藝時代」の概要を参照ください。
- 西欧からの新しい潮流のページへのリンク