第一高等学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 08:35 UTC 版)
1922年(大正11年)に第一高等学校文乙科を卒業[要出典]。 一高同級生には親友に尾崎秀実がいた。尾崎を内閣嘱託として近衛文麿に紹介した総理大臣秘書官の牛場友彦も同級生である。尾崎は実家があった台湾に帰省する途中、当時大阪北畠にあった浅之介の実家(草鹿丁卯次郎邸、「南東軒」)に立ち寄り、父丁卯次郎、長兄龍之介他草鹿家の人々と親交を深めた。丁卯次郎はドイツイェーナ大学に留学後に日本にカール・マルクスの学説を紹介した一人といわれているが[誰によって?]、浅之介自身はどちらかといえば右寄りの思想、一方親友の尾崎は共産主義に傾倒していった。尾崎と浅之介はともに上海での勤務経験があり、上海に関わる会話をする機会があったようだが、尾崎も上海における記者以外の活動については親友の浅之介にも決して話をしなかった。尾崎がゾルゲ事件で逮捕された時、浅之介は東京刑事地方裁判所思想部におり、尾崎の裁判を裁判官として浅之介が担当する可能性があったが、浅之介はこれを固辞し、同じく一高同級生の高根義三郎(東京民事地方裁判所判事)とともに密かに尾崎や尾崎の家族のケアに動いていた。[要出典]尾崎も、思想や立場は違えども親友の浅之介を大変信頼しており、死の直前裁判官に上申書を上げた際にも「禅をやる友人(=浅之介)には僕の死生観のところを是非読んでもらいたいものです」と綴った手紙(1944年3月8日付)を妻に送っている。また、浅之介は次男の就職にあたり「(共産主義やスパイ礼賛という意味ではなく)尾崎の(元の純粋な)想いを継ぐように」と尾崎が勤務していた朝日新聞社への入社を勧め、次男は朝日新聞社に入社している[要出典]。
※この「第一高等学校時代」の解説は、「草鹿浅之介」の解説の一部です。
「第一高等学校時代」を含む「草鹿浅之介」の記事については、「草鹿浅之介」の概要を参照ください。
- 第一高等学校時代のページへのリンク