聖母の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 09:52 UTC 版)
聖母の出現(せいぼのしゅつげん、英: Marian apparition、聖母の顕現)とは、聖母マリアが人々の前に現れたとされる出来事を言う。なお、聖母マリアがこのように特定人物や、一般大衆の前に姿を持って出現することを顕現(けんげん)とも言う。
注釈
- ^ フランスのカトリック作家であるジョルジュ・ベルナノスは、『田舎司祭の日記』(1936) のなかで、マリアは原罪なきゆえに、「罪よりも若く、人祖よりも若い」としいている。cf. Journal d’un curé de champagne in Œuvres complètes, Paris, coll.《Pléiade》, Gallimard, 1961, p.1194.
出典
- ^ New Advent Nuestra Señora Del Pilar
- ^ Roman Catholic Saints Our Lady of Puy
- ^ History of the National Shrine of Our Lady of Walsingham Saint Bede Catholic Church
- ^ New Advent Our Lady of the Snow
- ^ Our Lady of Mount Carmel
- ^ グアダルーペの聖母 Laudate 女子パウロ会
- ^ Historia Klasztoru i Sanktuarium BERNARDYNÓW W LEŻAJSKU
- ^ Zbigniew Larendowicz. “250-lecie koronacji obrazu Matki Bożej w Leżajsku(レジャイスクの聖母像絵画250周年)”. Niedziela.pl. 2017年10月6日閲覧。
- ^ Obraz Matki Bożej Pocieszenia w Leżajsku BERNARDYNÓW W LEŻAJSKU
- ^ Mann, Stephanie A. "Who Is Our Lady of Laus?", Our Sunday Visitor, March 28, 2014
- ^ 不思議のメダイの聖母の聖堂 パリ日本人カトリックセンター
- ^ MARY'S GIFT OF THE GREEN SCAPULAR
- ^ Our Lady of the Miracle / Our Lady of Zion
- ^ “Marian Apparitions”. University of Dayton. 2013年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月23日閲覧。
- ^ ルルドの聖母 Laudate 女子パウロ会
- ^ 聖母の出現 現代フォークカトリシズム考 関 一敏著 日本エディタースクール出版部版 ISBN 4-88888-200-2 C3022
- ^ Sanctuaire Notre-Dame de Miséricorde de Pellevoisin Notre-Dame de miséricorde
- ^ The Miracle Hunter Gietrzwald, Poland (1877)
- ^ History Official website of Knock Shrine
- ^ ファチマの聖母 Laudate 女子パウロ会
- ^ Our Lady of Beauraing
- ^ Our Lady of Banneux
- ^ The Apparition at Tre Fontane
- ^ STORIA DELLA MADONNA DELLE LACRIME A SIRACUSA
- ^ The Mircle Hunter Kibeho, Rwanda (1981-1989)
- ^ Philippine Marian Site
- ^ Apparizione della Madonna di Caravaggio 26 maggio 1432 Santuario di Caravaggio official website
- ^ The Catholics of Viet Nam Pay Homage to Our Lady of La Vang CatholicCulture.org
- ^ Robinsonville (now Champion), WI, USA (1859)
- ^ 津和野 乙女峠 津和野カトリック教会
- ^ Our Lady of Heede, Queen of the Poor Souls in Purgatory
- ^ Miravalle, Mark and Russell, Richard L., "The Fifth Marian Dogma: The Church’s Unused Weapon", Catholic Exchange, September 24, 2013
- ^ “The Apparitions of Our Lady as Rosa Mystica and the Church and the Popes”. catholictradition.org. 2023年7月11日閲覧。
- ^ ABOUT APPROVED DEVOTION OUR LADY OF AMERICA
- ^ Breve historia Garabandal
- ^ The Apparitions Of The Blessed Holy Virgin Mary
- ^ 聖母マリアの司祭運動 日本公式サイト
- ^ ヨハネ伊藤庄治郎司教による「秋田の聖母像に関する司教書簡」(1984年4月22日・PDF) 秋田の聖母マリア(101 New Life Network)
- ^ The Betania Apparitions of the Blessed Virgin Mary
- ^ The Miracle Hunter Cuapa
- ^ HISTORY OF MARY OF THE ROSARY OF SAN NICOLAS
- ^ “A Marian apparition has been approved in Argentina - and it's a big deal”. CNA (2016年6月4日). 2022年6月14日閲覧。
- ^ Medjugorje
- ^ バチカンニュース「教皇、メジュゴリエへの巡礼を許可」
- ^ “Virgen del Cerro”. Salta Argentina. 2022年6月14日閲覧。
- ^ Peregrinaciones desde Jujuy al cerro de las apariciones de la Santísima Virgen María, la Inmaculada Madre del Divino Corazón Eucarístico de Jesús
- ^ Mugavero, Francis. "Declaration Concerning the 'Bayside Movement'"
- ^ Dublin's archbishop condemns 'Maria Divine Mercy' messages CatholicCulture.org
- ^ The Apparitions Of The Blessed Holy Virgin Mary
- 1 聖母の出現とは
- 2 聖母の出現の概要
- 3 カトリック教会が否定する出現
- 4 関連項目
聖母の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 04:04 UTC 版)
同年5月16日にブノワットが羊を連れてキリヌの谷に向かったところ、聖母子に対面した。ブノワットは後にマリアが名乗るまで二人が聖母子だと気づかなかった。 2ヵ月後に聖母はブノワットに話しかけ始め、ブノワットに「聖母マリアの連祷(ロレトの連祷)(イタリア語版)」などを教えた。ブノワットはその祈りをサン=テティエンヌ=ル=ロウの少女たちに教え、毎晩、教会で少女たちと共に唱えた。 8月29日、婦人は自分が聖母マリアであることを告げ、ブノワットの使命として罪人を改心させるように働きかけることと、そのために神はブノワットに人の心を読み取る能力を授けたと伝えた。 聖母はブノワットにロウでいい香りのする場所にて聖母を探すように伝え、ブノワットはそれに従った。ブノワットはロウで「ボン・ランコントルの聖母(Notre Dame de Bon Rencontre)」に捧げられた古い聖堂を見つけた。聖堂は荒れ果てていたため、聖母はそれを建て直すことと罪人の改心の場となるよう願った。また聖母はブノワットに聖櫃から出る油は虚弱な者が自分の取り成しを信じた上で塗油を受けるならば、奇蹟を起こすとも教えた。
※この「聖母の出現」の解説は、「ロウの聖母」の解説の一部です。
「聖母の出現」を含む「ロウの聖母」の記事については、「ロウの聖母」の概要を参照ください。
聖母の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 03:25 UTC 版)
10世紀にヘルフォルトでアルプスの北側で記録に遺る最初の聖母の出現が起こった(ヘルフォルダー・ヴィジョン)。ヘルフォルト最大の教会祭はこれにちなんで名付けられたが、2010年以降は年の市は開催されていない。伝説はこうである。ある羊飼いがシュティフトベルクでヒツジとともに休んでいた。彼は杖を地面に突き立てていた。夢の中で、白いハトの姿をした聖母がその杖にとまった。彼女はここに教会を建てるよう彼に命じた。そうして杖は、ボダイジュとなって芽を吹いた。目が覚めると牧人は街へ行き修道女にマリア教会のヴィジョンを知らせた。 マリア教会の祭壇の中にある木の幹の断片が、正にこのボダイジュの一部であるとされる。しかしこれはおそらく、旧ザクセン族の聖域がキリスト教化された遺物であろうと推察されている。こうした木片は、かつて歯痛の治療のために歯の間に挟み込まれたものだった。
※この「聖母の出現」の解説は、「ヘルフォルト」の解説の一部です。
「聖母の出現」を含む「ヘルフォルト」の記事については、「ヘルフォルト」の概要を参照ください。
聖母の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 07:20 UTC 版)
聖母が出現した当時、ペルボワサンは、人口約千人で商業が中心の土地であった。エステルは1865年からアーテュー・ラ・ロシュフコー夫人に使用人として雇われ、パリとペルボワザンを行き来する同家に随行し、子供の面倒をみるなどして仕えていた:5。エステルはもともと病弱であったが、1875年5月下旬にパリで重い肺結核を患った。エステルが32歳のときであった。ラ・ロシュフコーはエステルをペルボワザン近郊のポワリエ・モンベル邸近くにある別荘へ移したが、その後も病状はよくならなかった:5。 エステルは子供のように純真な信仰を持っていた。エステルは病気を治癒を願う手紙を聖母マリア宛に書き、友人に頼んでこの手紙をポワリエ・モンベル邸の庭園内に造られた「ルルドのグロット(洞窟)(英語版)」の聖母像の足元に置いてもらった:6-7。邸宅はペルボワサンから約3Kmほど離れたところにあった:4。 1876年1月下旬、エステルの雇い主であるラ・ロシュフコー伯夫人らはパリへ旅立つことになり、ペルボワサン教区の教会近くに所有している民家にエステルが住めるよう手配した。飲み物以外は口にすることができないエステルは、2月の14日に終油の秘跡を受けた。彼女を診察した医師はもう長い時間生きてはおられないだろうと診断した:6。 エステルが一連の聖母出現で自らが経験したことについて語った内容は次のとおりである。最初の出現があったのは2月14日月曜日の夜から翌15日にかけてで、聖母が言うには、キリストの「五つの傷」にならい、エステルはさらに5日間苦しまなければならない。そしてこの5日間がすぎれば、エステルは死ぬか、病気が完治するかのどちらかになるだろう。もしエステルが生きることとなったら、「聖母の栄光」を世間に知らしめる勤めを負うことになる。 その後、4日間続けて夜になると聖母がエステルのもとを訪れた。火曜日の夜、聖母はエステルが土曜日に完治すると告げ、次のように言った。「御子があなたの命を救うのは、あなたにそれが必要だからです。」「ただし、苦しみから逃れることはできません。(中略)御子が心を動かされるとすれば、それはあなたが大変な忍従と忍耐を示したときです。」水曜日にも聖母が出現し、「私は慈悲深く、御子にあらゆる影響を与える存在です。あなたの善行と私への熱心な祈りは、私の母なる心を動かしました。」と言った:15-24。 金曜日の夜、聖母は前夜までのようにベッドの片隅に立つのではなく、エステル近づいてきて石板を見せた。その石板は、エステルが病気の完治を感謝して設置したに違いないもので、そこには次のように刻まれていた。「私は憂いの果てに聖母に願った。聖母は私のために御子へとりなして下さった。私は完全に治癒した。」石板は真っ白ではなく、四角に金の薔薇が描かれており、天辺には炎のようなハートが描かれていた。そのハートは上に薔薇の王冠が乗っていて剣で貫かれていた:24-25。土曜日、エステルが聖体を拝領すると、彼女は完治していた。エステルはすぐさま普通に飲食できるようになり、数日後には家事をこなし、疲労の色も見せずに庭仕事をしていた。 その後、7月1日の土曜日から、3日連続で3回の聖母出現があった。聖母はエステルに「御子の心は愛に満ちています。そのため御子は私の願いを拒否することはありません」(7月1日)、「私はここを罪びとたちが罪の償いをする特別な場所に選びました」(7月2日)と言い、エステルにはもっと平静を保つように(7月3日)と伝えた:27-33。 聖母は9月9日の土曜日、10日の日曜日、15日の金曜日に出現した。この時、聖母が身に着けていた小さなスカプラリオが、エステルの眼に止まった。純白の布地のスカプラリオを、エステルは以前に目にしたことがあった。しかし、この日のスカプラリオは赤いハートが縫い付けてあった。「このスカプラリオを身に着けて私を崇敬すること、それを私は嬉しく思います」と聖母は言い、そして「この地こそ、私の栄光が讃えられる場所なのです」と言った。その後の聖母出現は9月15日で、聖母は教会とフランスのことを心配していると言い、「もうこれ以上、御子を抑えることはできない。フランスは苦しむことになるだろう」と言った:34-37。 その後、さらに11月1日(「諸聖人の祝日」)の水曜日、5日の日曜日、11日の土曜日と3回の出現があった。11月11日にエステルは聖母が身に着けていたスカプラリオと同じものを作る準備をしていた。このとき聖母は、「あなたは私のためにずっと働き続けてくれていたのですね。もっとたくさん作ってください」、「勇気を出して」と言い残して去った:40-45。 1876年12月8日(無原罪の御宿りの祭日)の金曜日が、最後の聖母出現となった。この日、「聖母の子供たち」を迎えるため、エステルの寝室にある暖炉が祭壇に仕立てあげられたところであった:53。 私を信頼して、人々がこのスカプラリオを身に着けることを心待ちにしています。私はその人々に多くの恵みを与えます。この恵みは御子からの恵みなのです。私は御子のハートからこの恵みを与えるのです。御子は私を拒否することはありません。 聖母はエステルに、このスカプラリオを地元の司教に見せて、これを広めるために司教の力添えを求めなさい、と言った。 エステルはペルボワサンの地で1929年8月23日に逝去した。それは87回目の誕生日のわずか数週間前のことであった:119。
※この「聖母の出現」の解説は、「ペルボワサンの聖母」の解説の一部です。
「聖母の出現」を含む「ペルボワサンの聖母」の記事については、「ペルボワサンの聖母」の概要を参照ください。
- 聖母の出現のページへのリンク