総理就任とは? わかりやすく解説

総理就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:46 UTC 版)

犬養毅」の記事における「総理就任」の解説

犬養第2次山本内閣逓信大臣務めた後、第2次護憲運動結果成立した加藤高明内閣護憲三派内閣)においても逓信相を務めた。しかし高齢小政党率いることに限界感じた犬養は、革新倶楽部立憲政友会吸収させ、逓信大臣議員辞めて引退した。しかし辞職に伴う補選岡山支持者たちは勝手に犬養立候補させた。再選され犬養渋々承諾したものの、富士見高原山荘に引きこもっていた。 さらに1929年昭和4年9月政友会総裁田中義一没した後継をどの派閥から出して党分裂懸念があったことから、犬養担ぎ出すことになった1929年昭和4年10月犬養大政党・立憲政友会総裁選ばれた。同12月8日日光東照宮板垣退助建立ときには序幕式で頭山満とともに祝辞述べている。(日光の板垣像建立参照1931年昭和6年)、濱口内閣進めロンドン海軍軍縮条約反対して鳩山一郎とともに統帥権干犯である」と政府攻撃した犬養のこの行動は、統帥権政治的手段になる事を軍部教えた形となり、日本民主主義政党政治衰退する要因となった当時の『東京朝日新聞』は、統帥権政治利用した犬養らを非難しており「醜態さらした政友会正道に還れ」という記事書いている。なお、このときに犬養とともに統帥権問題起こした鳩山一郎は、軍部台頭させた人物として太平洋戦争後、GHQにより公職追放された。 同年勃発した満州事変めぐって第2次若槻内閣閣内不統一に陥り、総辞職した元老西園寺公望後継犬養推薦した内閣誕生直後総選挙で、政友会議席大きく伸ばした国民期待を受け、犬養は金輸出禁止踏み切り財政改善図った。しかし財閥利益得ただけの結果終わった満州問題でも、満州傀儡政権設立求め軍部対し犬養中国宗主権認めた上で経済的に日中合弁政権設立主張した犬養萱野長知上海送り国民政府交渉させた。しかし、萱野からの電報内閣書記官長であった森恪握り潰し交渉行き詰まった犬養構想頓挫することとなった犬養は、軍部主導満州国承認には消極であったが、その一方で公債による膨大な軍事費支出していた。この軍備拡張が、満州事変など関東軍大陸作戦貢献したことから、陸軍との関係はそれほど悪くなかった

※この「総理就任」の解説は、「犬養毅」の解説の一部です。
「総理就任」を含む「犬養毅」の記事については、「犬養毅」の概要を参照ください。

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