総理就任
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犬養は第2次山本内閣で逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めた。しかし高齢で小政党を率いることに限界を感じた犬養は、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、逓信大臣や議員も辞めて引退した。しかし辞職に伴う補選に岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させた。再選された犬養は渋々承諾したものの、富士見高原の山荘に引きこもっていた。 さらに1929年(昭和4年)9月に政友会総裁の田中義一が没した。後継をどの派閥から出しても党分裂の懸念があったことから、犬養を担ぎ出すことになった。 1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。同12月8日、日光東照宮の板垣退助像建立のときには、序幕式で頭山満とともに祝辞を述べている。(日光の板垣像建立も参照) 1931年(昭和6年)、濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。犬養のこの行動は、統帥権が政治的手段になる事を軍部に教えた形となり、日本の民主主義と政党政治が衰退する要因となった。当時の『東京朝日新聞』は、統帥権を政治利用した犬養らを非難しており「醜態さらした政友会は正道に還れ」という記事を書いている。なお、このときに犬養とともに統帥権問題を起こした鳩山一郎は、軍部を台頭させた人物として太平洋戦争後、GHQにより公職追放された。 同年に勃発した満州事変をめぐって第2次若槻内閣は閣内不統一に陥り、総辞職した。元老・西園寺公望は後継に犬養を推薦した。内閣誕生直後の総選挙で、政友会は議席を大きく伸ばした。国民の期待を受け、犬養は金輸出再禁止に踏み切り、財政改善を図った。しかし財閥が利益を得ただけの結果に終わった。満州問題でも、満州に傀儡政権設立を求める軍部に対し、犬養は中国の宗主権を認めた上で、経済的には日中合弁の政権設立を主張した。犬養は萱野長知を上海に送り、国民政府と交渉させた。しかし、萱野からの電報は内閣書記官長であった森恪が握り潰し、交渉は行き詰まった。犬養の構想は頓挫することとなった。 犬養は、軍部主導の満州国の承認には消極的であったが、その一方で公債による膨大な軍事費を支出していた。この軍備拡張が、満州事変など関東軍の大陸作戦に貢献したことから、陸軍との関係はそれほど悪くなかった。
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