第3回航海とは? わかりやすく解説

第3回航海 (1567–1569)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 07:00 UTC 版)

ジョン・ホーキンス」の記事における「第3回航海 (1567–1569)」の解説

1567年ホーキンス3度目の航海開始した。彼はポルトガル奴隷船マドレ・デ・デウス号(Madre de Deus)を捕らえ多く奴隷積荷得た。彼は大西洋で400人の奴隷捕らえたサン・フアン・デ・ウルア現在のベラクルス)で、彼は新し副王マルティン・エンリケス・デ・アルマンサ植民地運んでいる強大なスペイン軍遭遇したサン・フアン・デ・ウルア戦い (1568年)(英語版)が勃発し、2隻のみが破壊から免れたイングランドへ帰路航海惨めなものであり、後のアルマダの海戦までに従兄弟ドレークとともに雪辱期すことになる。

※この「第3回航海 (1567–1569)」の解説は、「ジョン・ホーキンス」の解説の一部です。
「第3回航海 (1567–1569)」を含む「ジョン・ホーキンス」の記事については、「ジョン・ホーキンス」の概要を参照ください。


第3回航海(1776年 - 1780年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 02:27 UTC 版)

ジェームズ・クック」の記事における「第3回航海(1776年 - 1780年)」の解説

巷間では、ロンドン市民の好奇の的となっていたオマイタヒチに戻すために航海が行なわれる噂されたが、第3回航海の公式の目的は、北極海抜けて太平洋大西洋をつなぐ北西航路探索することであったクックは再びレゾリューション号指揮取りチャールズ・クラーク僚船ディスカバリー号指揮をとった。オマイタヒチ返した後に、クックらは北へ進路取り1778年にはハワイ諸島訪れた最初のヨーロッパ人となったクックカウアイ島上陸し時の海軍大臣クック探検航海重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名したまた、クック達はハワイ諸島偶然にインフルエンザ持ち込み50万人いた島民は7万人にまで減じてしまった。 北アメリカ西海岸探検するためにクック東へ航海しバンクーバー島のノコタ・サウンドの中のユーコートにあるファーストネーションズ近く上陸したが、ファンデフカ海峡見過ごしてしまった。この北洋航海クックは、カリフォルニアからベーリング海峡に至るまでを探検海図作製しアラスカの今ではクック湾として知られている場所を発見した。ただ1度航海クックは、アメリカ北西岸の大部分海図作製しアラスカの端を突き止め西方からベーリングロシア人が、南方からスペイン人が行っていた太平洋北限探査空隙埋めてしまったのである。しかし、クックらが何度試みても、秋から冬にかけてのベーリング海峡帆船ではどうしても航行できず、そこから北へは進むことができなかった。 クック長年航海による精神的肉体的ストレス蓄積のためか、不調続き航路探索のためか日毎気難しくなり胃の不調に悩まされていた。そのゆえなのか、クックはしばし周囲深刻なもめ事起こすようになった。たとえば、アラスカ一行海牛見誤ってセイウチ仕留めた。「(残り少ない塩漬け肉よりずっと良い」と、クックセイウチの肉を船内消費するよう命じたが、クックを除く多く乗員嗜好セイウチの肉はまった馴染まなかった。しかし、これを食べない者には船の通常の食事禁じるなど、クック自分の考え固執したため船内には反乱寸前緊張生じたこのようなクック精神的状態がその後悲劇引き起こす一因となったと、ビーグルホールら後の伝記作者たちは推測している。 レゾリューション号1779年ハワイ島戻りケアラケクア湾投錨した。約1ヶ月滞在の後、クック北太平洋探検再開したが、出航間もなく前檣破損し補修のためケアラケクア湾に戻らなければならなくなった。しかし、ハワイの宗教上の複雑な事情ではこの突然の帰還は「季節外れ」で、先住民側からすると思いがけないことだったため、クック一行先住民の間に緊張生じることになった1779年2月14日に、ケアラケクア湾クックらのカッターボート村人が盗むという事件が起きたタヒチや他の島々でも盗難はよくあったことで、盗品返還交渉人質取ればたいてい解決した実際クック先住民の長を人質取ろうとしたのだが、不安定な精神状態のためか、盗品引き取りのために下船した際、浜辺集まった群衆小ぜり合い起きてしまった。塵一つに至るまですべて返還せよ、という冷淡なクック態度先住民らは怒りまた、長の1人クックらの捜索隊殺されたという噂に動揺した結果投石クックらを攻撃し始めたクックらも村人向けて発砲し騒ぎの中、退却余儀なくされた。小舟乗り込もう背中を向けたクックは頭を殴られ波打ち際転倒したところを刺し殺された。クックらの死体先住民持ち去られてしまった。 現地宗教上の理由奇妙な崇敬受けていたクック遺体は、先住民の長と年長者により保持され肉が骨から削ぎ取られ焼かれた。しかし、乗組員らの懇願によって、遺体一部だけが最後に返還されクック海軍による正式な水葬受けたチャールズ・クラーク、そしてクラーク死後はジョン・ゴアが探険引き継ぎ、更にベーリング海峡通過試みられたが、これも季節外れ失敗したレゾリューション号ディスカバリー号英国帰国したのは1780年8月のことであった

※この「第3回航海(1776年 - 1780年)」の解説は、「ジェームズ・クック」の解説の一部です。
「第3回航海(1776年 - 1780年)」を含む「ジェームズ・クック」の記事については、「ジェームズ・クック」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第3回航海」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第3回航海」の関連用語

第3回航海のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第3回航海のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジョン・ホーキンス (改訂履歴)、ジェームズ・クック (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS