第3回航海 (1567–1569)
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「ジョン・ホーキンス」の記事における「第3回航海 (1567–1569)」の解説
1567年にホーキンスは3度目の航海を開始した。彼はポルトガルの奴隷船マドレ・デ・デウス号(Madre de Deus)を捕らえ、多くの奴隷と積荷を得た。彼は大西洋で約400人の奴隷を捕らえた。サン・フアン・デ・ウルア(現在のベラクルス)で、彼は新しい副王マルティン・エンリケス・デ・アルマンサを植民地に運んでいる強大なスペイン軍に遭遇した。サン・フアン・デ・ウルアの戦い (1568年)(英語版)が勃発し、2隻のみが破壊から免れた。イングランドへの帰路の航海は惨めなものであり、後のアルマダの海戦までに従兄弟のドレークとともに雪辱を期すことになる。
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第3回航海(1776年 - 1780年)
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「ジェームズ・クック」の記事における「第3回航海(1776年 - 1780年)」の解説
巷間では、ロンドン市民の好奇の的となっていたオマイをタヒチに戻すために航海が行なわれると噂されたが、第3回航海の公式の目的は、北極海を抜けて太平洋と大西洋をつなぐ北西航路を探索することであった。クックは再びレゾリューション号の指揮を取り、チャールズ・クラークが僚船ディスカバリー号の指揮をとった。オマイをタヒチに返した後に、クックらは北へと進路を取り、1778年にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となった。クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した。また、クック達はハワイ諸島に偶然にもインフルエンザを持ち込み50万人いた島民は7万人にまで減じてしまった。 北アメリカの西海岸を探検するためにクックは東へ航海し、バンクーバー島のノコタ・サウンドの中のユーコートにあるファーストネーションズ村の近くに上陸したが、ファンデフカ海峡は見過ごしてしまった。この北洋航海でクックは、カリフォルニアからベーリング海峡に至るまでを探検、海図を作製し、アラスカの今ではクック湾として知られている場所を発見した。ただ1度の航海でクックは、アメリカの北西岸の大部分の海図を作製し、アラスカの端を突き止め、西方からベーリングらロシア人が、南方からスペイン人が行っていた太平洋の北限探査の空隙を埋めてしまったのである。しかし、クックらが何度試みても、秋から冬にかけてのベーリング海峡は帆船ではどうしても航行できず、そこから北へは進むことができなかった。 クックは長年の航海による精神的、肉体的ストレスの蓄積のためか、不調続きの航路探索のためか日毎に気難しくなり胃の不調にも悩まされていた。そのゆえなのか、クックはしばしば周囲と深刻なもめ事を起こすようになった。たとえば、アラスカで一行は海牛と見誤ってセイウチを仕留めた。「(残り少ない)塩漬け肉よりずっと良い」と、クックはセイウチの肉を船内で消費するよう命じたが、クックを除く多くの乗員の嗜好にセイウチの肉はまったく馴染まなかった。しかし、これを食べない者には船の通常の食事を禁じるなど、クックが自分の考えに固執したため船内には反乱寸前の緊張が生じた。このようなクックの精神的状態がその後の悲劇を引き起こす一因となったと、ビーグルホールら後の伝記作者たちは推測している。 レゾリューション号は1779年にハワイ島に戻りケアラケクア湾に投錨した。約1ヶ月の滞在の後、クックは北太平洋探検を再開したが、出航後間もなく前檣が破損し、補修のためケアラケクア湾に戻らなければならなくなった。しかし、ハワイの宗教上の複雑な事情ではこの突然の帰還は「季節外れ」で、先住民の側からすると思いがけないことだったため、クック一行と先住民の間に緊張が生じることになった。 1779年2月14日に、ケアラケクア湾でクックらのカッターボートを村人が盗むという事件が起きた。タヒチや他の島々でも盗難はよくあったことで、盗品の返還交渉は人質を取ればたいてい解決した。実際、クックは先住民の長を人質に取ろうとしたのだが、不安定な精神状態のためか、盗品の引き取りのために下船した際、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまった。塵一つに至るまですべて返還せよ、という冷淡なクックの態度に先住民らは怒り、また、長の1人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、槍と投石でクックらを攻撃し始めた。クックらも村人に向けて発砲し、騒ぎの中、退却を余儀なくされた。小舟に乗り込もうと背中を向けたクックは頭を殴られ、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。クックらの死体は先住民に持ち去られてしまった。 現地の宗教上の理由で奇妙な崇敬を受けていたクックの遺体は、先住民の長と年長者により保持され肉が骨から削ぎ取られ焼かれた。しかし、乗組員らの懇願によって、遺体の一部だけが最後に返還され、クックは海軍による正式な水葬を受けた。チャールズ・クラーク、そしてクラークの死後はジョン・ゴアが探険を引き継ぎ、更にベーリング海峡の通過が試みられたが、これも季節外れで失敗した。レゾリューション号とディスカバリー号が英国へ帰国したのは1780年8月のことであった。
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