生い立ちからビートルズ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 15:22 UTC 版)
「リンゴ・スター」の記事における「生い立ちからビートルズ時代」の解説
リヴァプールのロイヤル・リヴァプール小児病院で、1940年7月7日に誕生。労働者階級の出身だった。労働者の慣習に倣い父リチャード(1913 - 1981)のファーストネームを命名される。 3歳の時に、両親は離婚し母子家庭という環境で育ち「『父との思い出』と呼べるものは何もない」と述べている。 小学校低学年時に盲腸炎・腹膜炎などで1年以上休学し、勉学面でついていけなくなった。そのため、学校をズル休みする事が多くなってしまった。12歳のとき、母エルシー(1914 - 1987)がペンキ職人ハリー・グレイブス(1914 - 1994)と再婚した。 病弱だった彼は入退院を繰り返し、学校にほとんど行くことができなかった。この入院中に医者から教えてもらったのがドラムで、やがて院内のバンドに加入した。以来、リンゴはドラム以外の楽器に関心を示さなくなっていったという。ドラム・セットを手に入れた後は、もう学校に戻ることはなかった。昼は工場で働き、夜はダンス・パーティーなどでドラムを叩くという生活を送り、数々のグループに在籍して腕を磨いていく。 ビートルズに出会った時にはロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズというバンドのドラマーを務めていた。当時ビートルズのドラマーだったピート・ベストが1962年8月16日に解雇され、リンゴが8月18日にビートルズに加入して新たなドラマーとなり10月5日にレコードデビュー。 若い頃から職を転々としていたリンゴは、プロのドラマーになって初めて金銭を安定的に得られるようになった。リンゴはビートルズ加入前にビートルズの面々とハンブルク巡業時に顔見知りになったが、ジョージ・ハリスンは「出逢ったころのリンゴは僕らよりも収入が多くて、僕らよりも早く車を買って乗り回していた」と述べている。 芸名の“リンゴ・スター”とは、ロリー・ストーム&ハリケーンズ時代にそれぞれが芸名を考えた時につけられたもの。指輪が好きで両手にいくつも付けていたので“Rings(リングズ)”と呼ばれていて自分がリンゴ・キッドに憧れているので「リンゴ」と命名。リンゴは、Ringo Starkeyでいくつもりだったけれど、しっくりこなかったのでStarkeyを半分にしてrをもうひとつ付けたと発言している。 “A Hard Day's Night”、“Eight Days A Week”、“Tomorrow Never Knows”など、ビートルズの楽曲にもリンゴの発言を曲名にしたといわれるものは多々あるが、いずれも文法的には正しくない。ジョンはリンゴのこうした言語感覚を讃えて“Ringo-ism(リンゴ語)”と呼び、「リンゴはときどき、ちょっと面白い言い間違いをするんだ。文法の間違いだとかいうようなのじゃない、ジョークっぽいやつ。これが結構いいネタになるのさ」と発言している。 1965年2月にモーリン・コックスと最初の結婚、同年9月13日に長男ザック誕生。同年、MBE勲章五級を授与される。 ビートルズが1970年以前に公式発表した楽曲(一般に213曲とされる)のうち作曲家としてのスター(=リチャード・スターキー)の氏名がクレジットされているものは5曲(「ドント・パス・ミー・バイ」「オクトパス・ガーデン」「フライング」「ディグ・イット」「消えた恋」)あり、そのうち、彼が単独で作ったものは2曲(「ドント・パス・ミーバイ」「オクトパス・ガーデン」)である。また、彼がリード・ボーカルを担当している曲は十数曲存在する。また、僕の曲はアルバムに最低でも1曲入っていればOK、人気投票では3人に全く敵わないけど、“2番目に好きなメンバーを選ぶ投票”だったら、きっと1番になれるなどの発言から窺えるようにビートルズのメンバーの中で、最も穏やか、かつ人格者であったことでも知られ、彼がいなければビートルズの解散はもっと早まっていたとも言われている。 リンゴは2週間ほどレコーディングを離脱したことがあった。当事者サイドの見解によると、1968年のアルバム『ザ・ビートルズ』(ホワイト・アルバム)のセッションで「バック・イン・ザ U.S.S.R.」をレコーディング中のこと、自分のスケジュールを常にほかの3人に合わせ、自由な時間もほとんどない状況で、そのうえポール・マッカートニーがリンゴのドラミングにいちいち注文をつけ、挙句の果てにはポールが自分でドラムを叩き、こういう風にやるんだよと言うと、流石のリンゴも激怒した。彼はやめてやると言い放ち、スタジオを後にした。 スターは2週間ビートルズを辞め、俳優のピーター・セラーズから貸与されたボートでサルデーニャの家族と休暇を過ごした。シェフが料理を出したが、スターはそれを食べることを拒否した。動物についての船長との会話は、スターが旅行中にギターで書いたスターのアビーロードの楽曲「オクトパス・ガーデン」に影響を与えた。彼は2週間後にスタジオに戻り、ハリスンが”ウェルカム・バック”のジェスチャーとしてドラムキットを花で覆っていたことを発見した。 ホワイト・アルバムの完成中に、一時的に親密な関係に戻ったにもかかわらず、ビートルズの4番目の長編映画である『レット・イット・ビー』とそれに付随するLPの制作は、バンドの関係をさらに緊張させた。1969年8月20日、ビートルズは「I Want You」のミキシング・セッションのためにアビーロード・スタジオに最後に集まった。9月20日の会合で、レノンはビートルズを辞めたと他の人たちに語ったが、バンドの解散は1970年4月10日のマッカートニーの発表まで、公に知られることはなかった。
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