現役時代から保存まで
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「国鉄8620形蒸気機関車58654号機」の記事における「現役時代から保存まで」の解説
1922年(大正11年)11月18日に日立製作所笠戸工場で落成(製造番号 62)。同年12月26日付で浦上機関庫に新製配置され、長崎本線で使用された。その後、九州各地を転々としたのち、1949年(昭和24年)6月21日付で西唐津機関区に転属し、唐津線で使用された。1961年(昭和36年)4月20日には長崎本線佐賀 - 唐津線唐津間で、翌21日には唐津線唐津 - 久保田間お召し列車を牽引している。 1964年(昭和39年)6月4日付で若松機関区に転属してからは、筑豊各路線で使用された。1968年(昭和43年)6月1日付で人吉機関区に転属してからは、湯前線の貨物列車に使用された。1975年(昭和50年)3月9日に同線多良木 → 人吉間での貨物列車の牽引をもって運用を終了。同年3月31日付で廃車となり、人吉市に貸与された。その後は肥薩線矢岳駅前の人吉市SL展示館に展示されることになった。新製から廃車までに走行した距離は300万 km余りであった。
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現役時代から保存まで
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「国鉄D51形蒸気機関車498号機」の記事における「現役時代から保存まで」の解説
D51 498は、1940年11月24日に鉄道省鷹取工場にて落成し、鷹取から近い岡山機関区に新製配置された。のちに吹田(1951年8月 - )→平(1953年12月 - )→長岡第一(1963年10月 - )→直江津(1965年4月 - 、配置替えではなく貸し渡し)→新津(1966年3月 - )→坂町(1972年3月 - )と各機関区を転々としていた。先輪は刻印から1955年10月に郡山工場でC58 103の物に交換されたことが分かっている。当のC58 103は1972年に廃車後、岩手県一関市の一関文化センターで保存されている。 なお、新津時代には、同じJR東日本で復元されたC57 180と同時に所属していた時期(本機が新津に配転された1966年からC57 180が廃車された1969年まで)があった。また、のちの1972年に梅小路蒸気機関車館に動態保存され、現在山口線で保存運転を行っているC57 1とも同時に所属していた。このため、1966年から1969年の3年間は奇しくも3台の復活蒸機が同じ所属で活躍していたこととなる。さらにその前の平機関区所属時には、梅小路蒸気機関車館にて動態保存されている8630(1952年12月 - 1970年3月)と、銀河鉄道999のモデルともなったC62 48(1950年8月 - 1967年9月)の2台と同籍しており、当機は多くの名声ある機関車との関わりを持っている。 1972年10月に鉄道100周年記念で八高線にて運転されたイベント列車の牽引を最後に運用から外れた。なお、配置は坂町機関区のままで、高崎第一機関区には貸し渡しとされている。 その後、同年12月1日に車籍抹消となったが、同日に群馬県利根郡月夜野町(現・みなかみ町)に貸与されることが決定し、4日後の12月5日に上越線後閑駅前(構内脇)にて静態保存された。
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現役時代から保存まで
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「台湾鉄路管理局DT668号機」の記事における「現役時代から保存まで」の解説
本機は1941年(昭和16年)に川崎車輌で製造されたグループで、形態的には内地向けのD51形における標準型に属する。台湾総督府鉄道での車番はD5118、川崎車輌での製造番号は2593。第二次世界大戦中であったので同形機と共に戦時下の貨物輸送に重用されたと思われるが、戦時下ゆえにその記録は乏しい。 光復後の1949年に一斉改番が行なわれ、DT668と改番されたほか、カウキャッチャー、煙室戸にクリートの取り付けなどの各種改造を受けたが、民国期も変わらず貨物用機関車として運用されていた。1979年に西部幹線が電化されるなど、台湾においても無煙化の波が押し寄せ、1984年3月に除籍となった。
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現役時代から保存まで
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「国鉄C61形蒸気機関車20号機」の記事における「現役時代から保存まで」の解説
C61 20は、戦時形のためそのまま使い続けるにしても何らかの改修が必要であったD51 1094のボイラーを流用し、1949年(昭和24年)8月1日に三菱重工業三原製作所にて製造番号 659として落成した。8月30日、青森機関区に新製配置された。のちに仙台機関区へ転属し、当時の花形特急「はつかり」や「はくつる」などの牽引を担うため長らく在籍するが、1966年12月14日に再び青森機関区へ戻ることとなる。5年後の1971年、東北本線や奥羽本線の電化が進み活躍の場を失った当機は、終焉の地として九州地方の宮崎機関区へと赴き、9月19日より運用開始。急行「日南51号」から貨物列車まで様々な列車の牽引に充当され、1973年(昭和48年)8月28日に廃車となった。新製から廃車までの走行距離は286万9,889 kmに及んだ。 廃車当時はSLブームであったこともあり、当機は国鉄から無償譲渡され、群馬県伊勢崎市の華蔵寺公園遊園地で静態保存されることとなった。1973年12月18日に鹿児島鉄道管理局の出水機関区(出水駅)を出発し、12月27日に高崎操車場へと到着。伊勢崎の地にやってきたのは年明けの1974年1月17日、その後当地で組立作業が行われ、静態保存機として展示が開始されたのは3月に入ってからのことである。
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