独自路線
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「シャルル・ド・ゴール」の記事における「独自路線」の解説
ド・ゴールを支えるフランスとベルギーの財界は冷戦の陰でヨーロッパ統合を推進し、再び地中海のビジネスを繁栄させようと考えていた。こうした思惑がド・ゴールの「独自路線」として実を結んだ。これがいわゆるド・ゴール主義であり、ド・ゴールは西ドイツと和解・協力を進める反面、東ヨーロッパ諸国も歴訪し、アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)や国際連合に対して批判的な態度を取った。 1960年2月、フランスはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功し、アメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリスに次ぐ核保有国となった。1963年8月の部分的核実験禁止条約には加盟せず、以降もアルジェリアなどで核実験を繰り返し、フランス領ギアナにギアナ宇宙センターを建設して宇宙開発も推し進めた。 1964年1月、イギリスを除く西側先進国では最も早く共産主義政権下の中華人民共和国を国家承認した。同年5月にキューバへ機関車を輸出する契約を締結し、アメリカ合衆国から非難された。9月からド・ゴールが直々に中南米諸国を歴訪した。1965年に仏ソ原子力平和利用協定を締結した。 1965年、イスラエルの諜報機関とモロッコの諜報機関が共謀してモロッコの反政府指導者・メフディ・ベン・バルカを拉致・拷問後に殺害する事件が発生し、フランスの報道機関がこれをセンセーショナルに報道した。明らかな主権侵害である為、ド・ゴールは失態を晒した自らの国の情報機関を解散させた。またモロッコに関係者の引き渡しを求めたが、国王のハッサン2世は拒否したため、ド・ゴールはモロッコと断交した。 1966年7月にはフランスがNATOの軍事機構から脱退し(一般の政治部門には残留)、NATO本部がパリからベルギーのブリュッセルへ移転した。この時フランスは国際連合の分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリスのヨーロッパ経済共同体への加盟拒否も表明し、同年11月に仏ソ直通電話線設置協定に調印した。また当時激化していたベトナム戦争に対するアメリカの介入を批判してベトナムの中立化をアメリカに提案したが、受け入れられなかった。 1967年7月24日、モントリオール万国博覧会訪問のため訪れていたカナダのケベック州モントリオール市で群集を前に「自由ケベック万歳!」(Vive le Québec libre!)と声を上げ、カナダとフランスとの間の外交問題になっただけでなく、ケベック独立運動の火に油を注ぐ結果ともなった。9月にポーランドを訪問して体勢を立て直した。 1967年7月6日に勃発したビアフラ戦争で、フランスはビアフラの分離独立を支援した。これはビアフラにある石油利権を狙ったもので、ド・ゴールも腹心を通じて巧みに工作員を使い、ビアフラ分離独立運動を先導させ、資金・戦事物資をふんだんに送ったという証言がのちに出ている。結局アメリカ・イギリス・ソ連の支援を受けたナイジェリア連邦軍が優勢で、ビアフラは悲惨な飢餓状態に陥って崩壊し、独立はならなかった。
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独自路線
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1980年代には漫才ブームをよそに、独自路線での芸を展開し、一本の映画を一人で演じ語り下ろす映画再現芸「スクリーンのない映画館」を確立した。特に『泥の河』は知られている。 レパートリーはほかに『花いちもんめ』『ゴッドファーザー』『道(フェデリコ・フェリーニ監督)』『天井桟敷の人々』『息子』『椿三十郎』『ライムライト』『砂の器』や、映画以外に題材を得た『田中角栄物語』『中村秀十郎物語』『桃川燕雄物語』『ハイエナはなぜ嫌われるのか』などがある。 特異なキャラクターが買われての映画出演も多く、ことに『無能の人』(竹中直人監督)での演技は異彩を放った。 肝臓がんが明らかになっても、治療を行いながら精力的に活動を続けた。「がん」を患っていることは隠さず、「がんと共生し、しぶとく」とたびたび語っている。
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