法華堂の建立年代と本来の安置仏
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「東大寺の仏像」の記事における「法華堂の建立年代と本来の安置仏」の解説
法華堂の建立年代、本尊不空羂索観音像をはじめとする諸仏の制作年代、制作事情については、明治期以来多くの研究が積み重ねられ、さまざまな説があって、いまだ決着をみない。天平19年(747年)の『正倉院文書』(「金光明寺造物所解」)に、国中公麻呂が金光明寺の「羂索菩薩」の「光柄及び花蕚」用に「鉄二十挺」を請求したとの記録があり、これを法華堂不空羂索観音像の光背と台座に関するものとみて、 この頃を像の完成時とする見方がある。一方、天平12年(740年)、藤原広嗣の乱の平定のために諸国に観音像を作らせる勅命が出されたことを本像造立と結びつける説、同じ天平12年、東大寺の前身寺院である金鐘寺にて初めて華厳経の講説が行われており、本像はこの時までに作られていたとする説もある。法華堂の建物自体の建立年代については、屋根瓦に恭仁京式の文字瓦が使用されていることから、恭仁京の造営が行われていた天平13・14年(741 - 742年)頃の建立とする説がある。法華堂の建立を741 - 742年、不空羂索観音像の完成を747年とした場合、堂が建立されてから最初の数年間は本尊が不在であったのかという疑問が生じる。現在の法華堂内の不空羂索観音像の安置状況を見ると、像本体と光背の位置が合っておらず、光背が本来の位置よりかなり下方にずれて取り付けられていることは、古くから指摘されている。法華堂が当初から不空羂索観音像を安置するために建てられたものであれば、このように光背の位置がずれているのは不自然である。また、『東大寺要録』所収の「桜会縁起」(さくらええんぎ)という記録に、「不空羂索観音像の安置場所はなかなか決まらなかった」という記載がある。これらのことは、不空羂索観音像は法華堂の当初からの本尊ではなく、後に他から移入されたものである可能性を示唆している。法華堂は「羂索堂」とも呼ばれるが、「羂索堂」の名称の史料上の初見は、天平勝宝元年(749年)の「東大寺写経所注文」である。したがって、遅くとも同年までには法華堂の本尊として不空羂索観音像が安置されていたことがわかる。堂内のその他の像については、不空羂索観音像と材質が等しく、像高の大きい乾漆像8体(梵天・帝釈天、金剛力士一対、四天王)が当初像であり、本尊と材質が異なり(塑造)、像高の小さい日光・月光菩薩像は客仏(後世、他所から持ち込まれた仏像)とする説が、かつては有力であった。しかし、その後の調査の進展の結果、むしろ客仏と見られていた日光・月光菩薩像の方が本来の安置仏であったと考えられるに至っている。 1996年から1999年にかけて、法華堂内の仏像が修理された際、不空羂索観音像が立つ八角二重壇の調査が行われた。その結果、二重壇の下段には計6体の仏像を安置していた痕跡のあることがわかった。また、八角二重壇の上段には各角に計8個の丸孔があることが早くから指摘されている。上段の8個の丸孔については、ここに8本の柱を立て、屋根を架け、柱間を吹き放しとした「宝殿」が設置されていたと推定されている。すなわち、八角二重壇は本来はこの「宝殿」の基壇として作られたことになる。法華堂の天井に取り付けられている天蓋3面のうち、東西の2つは奈良時代のものだが、中央、すなわち本尊の頭上の天蓋は鎌倉時代の作である。本尊の位置に屋根付きの「宝殿」があったとすれば、その位置には天蓋は不要であり、中央の天蓋のみが新しいのはそのためとみられる。二重壇の下段には、正面と背面を除く残りの6辺のそれぞれに平面八角形の台座が置かれていた痕跡が見出された。文化庁の調査官の奥健夫は、これら6つの台座痕跡の大きさが、法華堂の伝日光・月光菩薩像、および戒壇院の四天王像(計6体)の台座の寸法に近いことを指摘し、(1)当初法華堂には不空羂索観音とは別の本尊が安置されており、(2)後に不空羂索観音像と二重壇が運び込まれ、壇の下段に伝日光・月光菩薩像と戒壇院四天王像の計6体を安置した、と推定した。川瀬由照は、執金剛神像は東大寺成立以前から単独で信仰されていたと規定したうえで、(1)東大寺の前身の山房には執金剛神像が本尊として祀られ、その周囲に伝日光・月光菩薩像と戒壇院四天王像が安置されていた、(2)これらの像は、後に山房から羂索堂(現・法華堂)に移された、と推定した。
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