本土防空
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「ドイツ空軍 (国防軍)」の記事における「本土防空」の解説
開戦当時のドイツ本土の防空体制は皆無に等しかった。当時のドイツ空軍総司令官であるヘルマン・ゲーリングが豪語したように、「防空には高射砲」という考えがあったからである。さらに、敵航空基地を絶え間なく攻撃すれば、相手が防空で手一杯となって爆撃ができないであろうという考えが存在していた。1940年5月15日、その考えが一変する。真夜中のドイツ本土上空に英爆撃機が出現し、さらには肝心の高射砲部隊が上手く機能しなかったのである。この後、夜間戦闘機部隊とレーダー防空網の整備が進められる中、イギリス空軍による大都市への夜間爆撃が恒常化する。 大戦中期に、アメリカ軍が参戦。1942年にアメリカ陸軍航空軍(第8空軍など)による軍事施設に対する昼間爆撃が本格化したが、1943年のシュヴァインフルトの爆撃では、迎撃によりアメリカ側に耐え難い損害を強いた。 護衛戦闘機の随伴が可能になった1944年からは、戦闘機隊を先行させて飛行場を強襲する、いわゆるスイープなどの対抗策が講じられた。さらにノルマンディー上陸作戦で、フランスに派遣された迎撃戦闘機の基地が占領されていくと、ドイツ空軍側は戦力維持が難しくなっていった。さらに合成石油製造工場の爆撃は大きな打撃となり、その結果、戦闘機は製造されるが燃料が無いという悪循環に陥った。 戦争末期に近づくにつれ、連合軍による空襲はますます激化し、1944年中には主な軍需工場が集中していたルール地方は焦土と化した。また、イギリス軍による夜間爆撃に対しては、爆撃機であったJu 88を夜間迎撃機に改造して使用した。ジェット戦闘機の開発も進められたが、爆撃機仕様が優先されたこともあり、実戦に投入されたのは大戦末期に差し掛かってからであった。1943年7月24日から8月2日にはハンブルク空襲で戦略爆撃機2865機が飛来し、総量9,185トンもの爆弾を投下。死者は5万人以上を数えた。この爆撃以降、ドイツ本土の都市を目標にした大規模爆撃が激化していった。
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本土防空
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「IAR-81 (航空機)」の記事における「本土防空」の解説
1943年の夏までには、東部戦線のすべての部隊からIAR-80とIAR-81は撤退、ルーマニア国内の防空任務に着いた。徐々に戦闘機航空兵団はBf 109へ機種変更を行い、第2・3・4・6航空機修理場は混成編成となった。二線級となっていたIAR-80とIAR-81であったが、それにも拘らず、これらを装備した部隊はその後も最も厳しい情勢下において戦闘任務を続けた。ルーマニアの防空戦闘機は重要地点において数にも機材の質にも勝るアメリカ空軍を相手に善戦した。プロイェシュティ油田への攻撃はイタリアからのP-38による攻撃に始まり、のちには当時最大級の爆撃機B-17、B-24がP-51やYak-9DDなどの長距離護衛戦闘機を連れて飛来するようになった。Bf 109とともに迎撃に上がったIAR-80・81は、当初米軍機パイロットにFw 190と誤認されていた。それまでソ連方面でしか使用されてこなかったIAR-80・81は、米軍パイロットには未知の存在であったのである。IAR-80・81のうち、特に強力な20 mm機関砲を搭載し対爆撃機用の迎撃戦闘機に特化されたIAR-80CとIAR-81Cは、対戦闘機用の迎撃戦闘機として用いられたBf 109G/Gaの護衛のもと米軍の大型爆撃機を多数撃墜または強制着陸に追い込み大きな戦果を挙げた。ルーマニア最大の軍事要衝であったプロイェシュティの石油施設を、連合国軍機はついに破壊することができなかった。米軍機は、そのかわりに中立国であるスイスの非軍事施設をドイツ軍への協力を理由に爆撃、破壊した。 1944年6月には、ドイツの要求により「シュピラールシュナウツェ(渦巻き鼻)」(Spiralschnauze)とよばれる黒字に白線の渦巻きを描くマーキングがプロペラー・スピナーに施された。これは正面方向からの枢軸国機の識別を容易にするためのもので、様々な機種が使用されるようになった大戦後期では初期に増して敵味方の識別が難しくなっていたことを反映した処置であった。だが、この指示が徹底されたかどうかは不明である。 IAR-80・81シリーズは、戦時中に539 機の撃墜記録を残し、その他90 機の不確定撃墜、168 機の強制着陸をさせたとされる。一方、220 機のIAR-80・81が敵戦闘機や対空砲火、その他アクシデントにより失われた。IAR-80・81を駆る撃墜王も誕生した。 IAR-80・81が防空戦に身を擦り減らしたプロイェシュティは、1944年8月23日にルーマニアが連合国へ降伏するまで守り抜かれた。その後、8月30日にソ連軍がプロイェシュティを占領、翌8月31日にはブカレストへもルーマニア軍と共同でソ連軍が入った。ルーマニアは、アメリカの地上軍が初めてドイツ本国領内に侵入した9月12日、米英ソとモスクワで休戦協定に調印した。
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