後瀬山城跡とは? わかりやすく解説

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後瀬山城跡

名称: 後瀬山城跡
ふりがな のちせやまじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 福井県
市区町村 小浜市
管理団体 小浜市
指定年月日 1997.05.23(平成9.05.23)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 小浜中世以降日本海海運拠点として、また中国大陸との交易の港として栄えたが、その小浜湊の背後聳える後瀬山標高146メートル)に、大永2年(1522)若狭守護武田元光築いた城が後瀬山城である。武田氏元光以降信豊、義統、元明と続くが、この間一族内紛が続くなど、その基盤は〓(*1)弱で、朝倉氏攻撃を受ける等のこともあった。元明の時天正10年(1582)本能時の変後滅亡する
 こののち後瀬山城丹羽長秀城主となり、この年10月には柴田勝家対す備えとして城構え強化されている。以後天正15年(1587)には浅野長吉(のち長政)、文禄2年(1592)には木下勝俊、と豊臣秀吉近親者城主となったのち、慶長5年1600)に入城した高次新たに小浜城築城したことにともない廃城となった
 後瀬山万葉集の歌ともなった名山であるが、城は山頂御殿通称される主郭設けそれより北北東北西の2方向延び尾根上に、連続してくるわを配置する構造となっている。この2つ尾根はさまれる谷の下方平地には、居館設けられている。「若狭国伝記」(文政6年〈1823〉竹村軍治筆写)中、永禄11年(1568)8月13日朝倉軍による後瀬山攻撃記述中に「麓ノ城」と見えるものが、これに該当しよう。また山の南方西方北西方はいくつかのたてぼり設けており、特に西方のそれは20近くたてぼり連続するいわゆる「畝形たてぼり」の典型である。
 通称御殿には野面積の石垣が残るが、その南西一段下がった部分にもくるわがあり、昭和62年から63年度に小浜市教育委員会によって発掘調査が行われた(小浜市教育委員会後瀬山城』)。その結果、このくるわでは東西1531メートル50尺五寸柱間数8間)、南北7・75メートル25尺六寸、柱間数4間)の礎石建物敷石玄関遺構ともなって検出された。また土塁連続して築山遺構検出されている。くるわ造成面は2面あり、土塁玄関についても2時期あることが確認されている。建物調査1面とどめているが、第1期礎石大部分利用しつつも、立て替えによって建物全体構造変わり玄関構造変わった考えられている。
 遺物青磁白磁染付瀬戸美濃等の陶磁器朝鮮製陶器(船徳利の底)、香炉火桶坩堝コビキ痕跡をもつ丸瓦、また平瓦等があるが、瓦出土量は少なく、棟の化粧程度使用考えられている。
 なお後瀬山山麓鬼門方角にあたる位置には、大永元年1521武田元光創建した発心寺曹洞宗)があり、天文20年(1551)に死去した元光墓塔宝篋印塔)があるほか、元光彫像画像残されている。
 後瀬山城日本海岸ではもっとも京に近い小浜湊を掌握する位置にあり、若狭守護である武田氏によって築かれた。また豊臣政権にあって重臣位置にある、枢要な大名配されている。城もこうした城主にふさわしい壮大なものであり、遺構残りきわめて良好である。よってこの城跡史跡指定し、その保存を図るものである



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