帰国と滞在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:56 UTC 版)
「在日韓国・朝鮮人の歴史」の記事における「帰国と滞在」の解説
終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件などの事故もあったが、その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。 GHQと日本政府は朝鮮人の引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている。 その後、朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった。戦前・戦中から、朝鮮人の多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾や鉱山、工場などでの労働によって生活していたため、日本語を巧く話せず、生活基盤は脆弱であった。GHQの計画に従い、大部分の人々が終戦後故郷へ帰る選択肢はあったものの、約4分の1が戦後も日本に定住するに至った。その後日本は戦後密航者も含めて在日の韓国への帰還を要請したが、韓国政府は消極的であり、後にとある日本人と在日韓国・朝鮮人双方から「棄民政策」として批判された。 1945年9月、在日本朝鮮留学生同盟が設立される。1945年10月15日に在日本朝鮮人連盟が設立され、1946年10月3日には在日本朝鮮居留民団(現在日本大韓民国民団)が設立される。1946年9月29日には坂町事件を報道した新潟日報が朝鮮人に襲撃される新潟日報社襲撃事件が起きた。1946年11月末までに占領軍は連合国や朝鮮人や中国人についての批判を禁ずるとした検閲の指針を定めた。1946年11月10日、在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成すると、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を要求し、12月20日に皇居前広場で朝鮮人生活権擁護全国大会を開くと首相官邸を襲撃した(首相官邸デモ事件)。また、三国人が行政への脅迫によって米の二重三重配給を受けて密造酒を醸造し、神奈川税務署員殉職事件、高田ドブロク事件など税務署との衝突が多発し、職員に死傷者が出ることもあった。このため、1947年に国会に上程された「財務局及び税務署に在勤する政府職員に対する税務特別手当の支給に関する法律案」の趣旨説明で、法案に記載されている政府職員が事務の執行にあたり生命又は身体に著しい危険を及ぼす恐れがある場合とは、特殊な第三国人等に対する検査調査が該当するとしている。ソフトバンクグループ会長孫正義の父は密造酒で稼いだ資金を元にパチンコ店数十店舗を開くなどして財を成している。また、覚醒剤密造の72%が在日韓国人によって行われた。1948年の浜松事件ではヤクザ、警官隊、占領軍との抗争が行われた。1949年4月8日、GHQの意向で在日本朝鮮人連盟が解散させられる。1950年5月、在日本朝鮮留学生同盟では、北朝鮮派と韓国派との内部抗争で死傷者がでた。1950年1月、祖国防衛隊が結成される。1951年1月、在日朝鮮統一民主戦線が結成される。1955年、在日本朝鮮人総聯合会が設立される。 戦後、「朝鮮人には民族教育が必要である」との主張に基づき、各地に朝鮮人学級、続いて朝鮮人学校が設置された。これに対して1948年に、GHQの意向により朝鮮学校閉鎖令が出され、阪神教育事件に発展した。朝鮮人が兵庫県庁に突入して閉鎖令を撤回させるなどしたため、アメリカ軍は非常事態宣言を出して朝鮮人1,700人を逮捕した。王子朝鮮人学校事件など朝鮮人学校をめぐる事件も続発した。 1947年5月の外国人登録令で、朝鮮人は、未だ日本国民ではあったが、外国人の入国について定める同令との関係では外国人とみなされるようになる。
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