対フランス革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:48 UTC 版)
「エドマンド・バーク」の記事における「対フランス革命」の解説
ロンドンの新聞が1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃を報じた7月18日、バークは既に60歳と当時は老齢と見なされる年齢に達していた。当初からフランス革命に対し否定的であり、そのことは1789年8月9日の手紙からもわかる。フランス革命への最初の言及を記録したとされる手紙には、次のように書いている。 自由を求めて苦闘するフランスを、イングランドは驚きながらじっと見つめている。非難すべきか賞賛すべきかは分からない! 進歩の中に何かそれらしいものが見えると、私は数年来考えた。だがいまだにその苦闘は、逆説的で奇妙なものを確かに内包している。自由への精神に感心しないわけにはいかないが、年老いたパリ市民の蛮行は衝撃的なやり方で勃発したのである。 — バーク バークがフランス革命を断固として拒絶するようになったきっかけは、ルイ16世をパリに引き戻すため 、1789年10月5日から6日にかけて暴徒化した市民がヴェルサイユへ進撃した出来事である(ヴェルサイユ行進)。同月10日、バークは息子リチャード宛ての手紙にこう記した。 この日私は、フランスのゆゆしき宣言を示す文書を送ってきたローレンスから耳にした。その宣言においては、まるで人間社会を構成する要素がみな解決したかのように思われ、そして怪物のような世界が生成される。そして、尊大な反政府主義者ミラボー主宰が統括し、前の君主は哀れなほどにおかしな姿になっているのである。 — バーク また当時、まだ無名であったリチャード・プライス(哲学者、en)が名誉革命記念協会を代表してフランス国民会議に賛辞を送っており、バークはイギリス世論が同協会の意見と同一視されることに危惧を抱いていた。 同1789年11月、バークは革命支持者であるフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。バークは「私の言う危機的な言い回しは、すべて単なる疑問の表現として見なされるべきである。」と返答した。だが、付け足してもいる。「貴方がたは君主を倒したかもしれない。でも自由は奪回できていない」。さらに同年11月の『フランス革命の省察』上梓に至る経緯として、長文の手紙、返信第2信(1790年1月に)をしたためた時に読んだ、ユニテリアン牧師プライスの『祖国愛について』への反論を書き上げた。前出の『省察』の内容はフランス革命への批判、そして革命が以後どのような経過を辿るかの予見である。 初めて公に革命非難を行ったのは、1790年2月9日、軍隊の予算見積もりに関する国会の議論においてである。首相の小ピットやチャールズ・ジェームズ・フォックスがフランス革命を賞賛したことによって引き起こされた。 昨夏議会が閉会されて以来、多くの労力がフランスにおいてなされてしまった。フランスはこれまで世界に存在してきた有能な破壊の建築家を証明した。非常に短い時間で彼らは完全に自らの基礎を、君主を、教会を、高潔さを、法律を、収入を、陸海軍を、商業を、芸術を、工業を破壊した(略)。不合理、無節操、追放、押収、収奪、凶暴で血まみれで専制的な民主主義の行き過ぎの模倣である(略)。これらの例の危険性はもはや不寛容からくるものではない(略)。無神論、反則、悪行、一切の尊厳の敵、そして人間の慰めからくるのである。長い間、公認、そしてほぼ公然であった派閥に具現化されるフランスの中に、これらが存在するように思われる。 — バーク さらに1790年5月6日、英国下院でフランス革命の脅威を説いたので、この日を「政治的保守主義」ないし「近代保守主義」の生誕記念日とする者も存在する。『省察』出版後、1791年に「フランス国民議会の一議員への手紙」 を出し、バークはその中で「なるほど確かにフランス国民は主権者になったが、同時にいつ殺されるかわからない奴隷となった」として、フランスが無秩序状態になっていると批判した。 同1790年9月には政府への建白書「フランス革命情勢」 を提出すると、フランス国内に反革命勢力が存在するうちに英国はフランスに宣戦布告すべきであると主張した。1792年12月には「現在の情勢」を記し、ピットが革命後のフランスによる領土的侵略を警戒したのに対し、バークは英国の法と自由の崩壊ひいてはヨーロッパ文明の破壊という、フランス革命によるイデオロギー的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らした。 バークはピットが指導する対仏戦争に「反革命の十字軍としての使命感」を求め、1796年の「国王弑逆者との講和(に反対する)」では〈同じ文化・同じ宗教・同じ法〉を共有しない者との講和は不可能であるとして、国家利益の見地から英国が模索するフランス革命政府との妥協に反対した。
※この「対フランス革命」の解説は、「エドマンド・バーク」の解説の一部です。
「対フランス革命」を含む「エドマンド・バーク」の記事については、「エドマンド・バーク」の概要を参照ください。
- 対フランス革命のページへのリンク