大本の成長とは? わかりやすく解説

大本の成長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:41 UTC 版)

出口王仁三郎」の記事における「大本の成長」の解説

1900年明治33年1月1日29歳喜三郎出口すみ(澄)(出口なおの五女)と結婚して入り婿となり、名前を出口 王仁三郎改める。以下『王仁三郎』と表記する。ただし入籍の手続き煩雑となり、正式な養子縁組1910年明治43年12月婚姻届提出翌年1月である。二人は六女二男もうけたが、男子早世した。当時教団筆先による終末論社会批判)と王仁三郎持ち込んだ知識体系鎮魂帰神法により、天理教金光教とも違う独自の教派発展しようとしていた。その一方公認宗教傘下入って布教合法化ようとする王仁三郎と、原理主義に陥っていた旧幹部激しく対立する大本ではなおを「女子肉体男子の霊が宿った変性男子」、王仁三郎を「男子肉体女子の霊が宿った変性女子」と定義し、なおには天照大神(火)王仁三郎にはスサノオ(水)宿って火水戦い」という宗教的な論争展開した。さらに教団主導権争いや、新参王仁三郎がすみと結婚した事に対す反発も加わる。この時期王仁三郎は旧幹部から夜討ちかけられたり、監禁され原稿燃やされるなど、数々忍耐強いられている。なお(直)と王仁三郎幾度も衝突繰り返しながら互い「神」を審神し、大本教義形成していった。同時期、日露戦争日本勝利に終わる。立替え熱が冷めたことで離脱する信者急増し教団衰退一途辿った1906年明治39年9月王仁三郎妻子残して教団離れ京都向かった教団合法化の道を探るべく遊学した時期高天原追放されスサノオ例えられる。「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科2年入学翌年3月卒業して建勲神社主典となるが半年退職12月には伏見稲荷御嶽教西部教庁主事1908年明治41年3月教大阪大教会長に抜擢生玉御嶽大教会詰として奉職する。さらに神道大成教教派神道)、キリスト教大石凝真素美など様々な交流により見識高める。その後御嶽教西部本庁勤務しつつ、困窮していた教団活性化手腕尽くす。教団合法化布石として6月8日神道大成教直轄直霊教会を、6月21日御嶽教大本教会を設立8月1日に金明霊学会を「大日本斎会」に改めた12月末に御嶽教辞職して綾部教団発展専念する。そして「神道研究」を団体の目的とし、内務省管理され公認教派神道に不満を持つ人々人気得た。この「大日本斎会」では、国家主義日本主義展開した1916年大正5年4月大日本斎会は「皇道大本」と改称する10月、なおに「…未申金神どの、素盞嗚尊小松の霊が、みろくの神の御霊で…という啓示があり、なおは王仁三郎神格認めた教団における王仁三郎権威確定し、これにより筆先加筆編集して大本神諭』として発表することが可能になる。なおの土着性と王仁三郎普遍性上手くみあったことで、大本世界宗教への萌芽を持つに至る。また天皇制を軸とした中央集権化と、資本主義を軸とした都市化大衆化共同体崩壊)も大本拡大一因となった12月、なおと王仁三郎心酔し英文学者浅野和三郎入信し機関誌神霊会」の主筆編集長になる。浅野大本入信日本知識階層衝撃与えた。この「神霊会」において、王仁三郎大正維新論陣張った

※この「大本の成長」の解説は、「出口王仁三郎」の解説の一部です。
「大本の成長」を含む「出口王仁三郎」の記事については、「出口王仁三郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大本の成長」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大本の成長」の関連用語

大本の成長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大本の成長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの出口王仁三郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS