大本の成長
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1900年(明治33年)1月1日、29歳の喜三郎は出口すみ(澄)(出口なおの五女)と結婚して入り婿となり、名前を出口 王仁三郎に改める。以下『王仁三郎』と表記する。ただし入籍の手続きが煩雑となり、正式な養子縁組は1910年(明治43年)12月、婚姻届提出は翌年1月である。二人は六女二男をもうけたが、男子は早世した。当時、教団は筆先による終末論(社会批判)と王仁三郎が持ち込んだ知識体系や鎮魂帰神法により、天理教や金光教とも違う独自の教派へ発展しようとしていた。その一方、公認宗教の傘下に入って布教を合法化しようとする王仁三郎と、原理主義に陥っていた旧幹部は激しく対立する。大本ではなおを「女子の肉体に男子の霊が宿った変性男子」、王仁三郎を「男子の肉体に女子の霊が宿った変性女子」と定義し、なおには天照大神(火)・王仁三郎にはスサノオ(水)が宿って「火水の戦い」という宗教的な論争を展開した。さらに教団の主導権争いや、新参の王仁三郎がすみと結婚した事に対する反発も加わる。この時期の王仁三郎は旧幹部から夜討ちをかけられたり、監禁されて原稿を燃やされるなど、数々の忍耐を強いられている。なお(直)と王仁三郎は幾度も衝突を繰り返しながら互いの「神」を審神し、大本の教義を形成していった。同時期、日露戦争が日本の勝利に終わる。立替え熱が冷めたことで離脱する信者が急増し、教団は衰退の一途を辿った。 1906年(明治39年)9月、王仁三郎は妻子を残して教団を離れ、京都に向かった。教団合法化の道を探るべく遊学した時期は高天原を追放されたスサノオに例えられる。「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科2年に入学。翌年3月卒業して建勲神社の主典となるが半年で退職。12月には伏見稲荷山御嶽教西部教庁主事、1908年(明治41年)3月同教大阪大教会長に抜擢、生玉御嶽大教会詰として奉職する。さらに神道大成教(教派神道)、キリスト教、大石凝真素美など様々な交流により見識を高める。その後は御嶽教西部本庁に勤務しつつ、困窮していた教団の活性化に手腕を尽くす。教団合法化の布石として6月8日に神道大成教直轄直霊教会を、6月21日に御嶽教大本教会を設立、8月1日に金明霊学会を「大日本修斎会」に改めた。12月末に御嶽教を辞職して綾部の教団発展に専念する。そして「神道の研究」を団体の目的とし、内務省に管理された公認教派神道に不満を持つ人々の人気を得た。この「大日本修斎会」では、国家主義・日本主義を展開した。 1916年(大正5年)4月、大日本修斎会は「皇道大本」と改称する。10月、なおに「…未申の金神どの、素盞嗚尊と小松林の霊が、みろくの神の御霊で…という啓示があり、なおは王仁三郎の神格を認めた。教団における王仁三郎の権威が確定し、これにより筆先を加筆・編集して『大本神諭』として発表することが可能になる。なおの土着性と王仁三郎の普遍性が上手くかみあったことで、大本は世界宗教への萌芽を持つに至る。また天皇制を軸とした中央集権化と、資本主義を軸とした都市化・大衆化(村共同体の崩壊)も大本拡大の一因となった。12月、なおと王仁三郎に心酔した英文学者浅野和三郎が入信して機関誌「神霊会」の主筆兼編集長になる。浅野の大本入信は日本の知識階層に衝撃を与えた。この「神霊会」において、王仁三郎は大正維新の論陣を張った。
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