大本の海外進出とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 大本の海外進出の意味・解説 

大本の海外進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:41 UTC 版)

出口王仁三郎」の記事における「大本の海外進出」の解説

1923年大正12年9月関東大震災では、中国新宗教団体道院世界紅卍字会)」(中国版赤十字)が来日して救援活動行い同時に王仁三郎大本接触した同種性を感じた王仁三郎は、信者日野強退役陸軍大佐探検家作家)の影響も受け、大陸へ関心強めていた。1924年大正13年2月13日第一次大本事件による責付出獄中に神の国建設して失業問題食料問題解決する」という構想により、植芝盛平合気道創設者)、松村真澄法学士)、名田音吉理髪師)を連れて日本出奔し関係者仰天させる腹心には遺書「錦の土産」の中で『東亜天地精神的に統一し次に世界統一する心算なり、事の成否天の時なり、煩慮要せず王仁三十年の夢今や正に醒めんとす』と目的明かした2月15日モンゴル地方到着すると、盧占魁(中国語版英語版)(ろせんかい)という馬賊頭領とともに活動する日本陸軍特務機関仲介入り張作霖から内外蒙古匪賊討伐委任状貰い受け上で義勇軍編成ダライ・ラマスサノオ名乗ると、チンギス・ハーンなぞらえエルサレム目指し進軍した。だが張は、王仁三郎達が全モンゴル統一独立を目指していることを知って怒り討伐軍を派遣した6月20日、パインタラ(現在の通遼市)にて王仁三郎一行と盧は捕虜となる。盧は処刑され王仁三郎銃殺されそうになり、覚悟決め辞世の歌詠む(パインタラの法難)。処刑直前日本領事館日本軍)の介入解放され植芝と共に帰国することが出来た。入蒙の目的布教目的だったことは認められたが、治安を乱す恐れがあるとして3年間の在留禁止処分下った1924年大正13年7月25日下関到着する逮捕され大阪刑務所おくられるが、3ヶ月釈放された。王仁三郎冒険談は関東大震災後鬱屈した人々快哉をもって迎えられた。1929年昭和4年10月出口すみと共に世界紅卍字会協力得て朝鮮満州布教努めた抗日運動激しさ増していたが、夫妻熱烈な歓迎受けた伝えられる国内での活動制限される中、王仁三郎アジアでの活動重視して中国軍閥日本右翼頭山満内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した続いて人類愛善会」を発起、これらの動き第一大本事件満蒙での失敗から、実際権力ではなく思想・信仰における改革への方針転換とされる。特に満州に対しては、世界紅卍字会提携して積極的に進出した。また中国大陸だけでなく、教団内に「大本開栄社」を設立して日本の委任統治領となった南洋諸島への布教行ったアジア南北アメリカヨーロッパにも進出し各国宗教団体心霊主義団体連携する宗教活動制限されソビエト連邦にも働きかけ行っている。大本王仁三郎民族主義天皇中心主義日本至上主義)と世界宗教性の振れ幅大きく、対応に苦慮した日本政府警戒強めていく。

※この「大本の海外進出」の解説は、「出口王仁三郎」の解説の一部です。
「大本の海外進出」を含む「出口王仁三郎」の記事については、「出口王仁三郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「大本の海外進出」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大本の海外進出」の関連用語

大本の海外進出のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大本の海外進出のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの出口王仁三郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS