合戦の時系列
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天正5年(1577年)12月10日島津氏の謀略による野尻城主福永祐友の謀反をきっかけに島津氏への寝返りが発生したため、日向国伊東氏の伊東義祐・伊東祐兵らが佐土原城・都於郡城から、大友氏のもとに米良山から高千穂経由で豊後国に一時的に退去。 天正6年(1578年) 1月伊東家家臣の日向国門川城主米良四郎右衛門尉・塩見城主右松四郎左衛門尉・山陰城主米良喜内らが、大友家家臣の佐伯宗天を通じて伊東家救援のため大友宗麟・大友義統の日向国出動を要請する。 1月 2日、縣松尾城(松尾城縄張り図)(宮崎県延岡市)に拠る縣土持氏の土持親成が薩摩の島津義久と結び、豊後大友氏から離反。 1月22日、島津義久、縣土持氏に石塚、三ケ名を宛行う。 3月15日大友軍、日向攻略に出発。軍勢総数は3万余(『延陵世鑑』)とも4万(フロイス『日本史』)とも言われる。本隊(大友義統)は宇目酒利に本陣を置き、梓峠越えで縣(延岡)へ向かう。縣攻めの主体は日出・玖珠・宇佐の兵といわれる。別動隊は肥後国から矢ケ嶺越えで高千穂へ向かい、玄武城(高千穂町)に拠った吉村氏が滅ぶ。 4月7日大友軍、日向に入り、「社ケ原(やしろがはら)」(現延岡市夏田町~稲葉崎町~無鹿町一帯)に布陣する。この前後、キリスト教による理想国建設をめざしていた大友軍が縣領内の神社仏閣をことごとく焼き払った(フロイス『日本史』)ため、寺社建築・仏像・古文書など宮崎県北の文化財がことごとく破壊・破脚される。その結果、宮崎県北部地域の近世以前の一次史料は、ほとんど壊滅的に失われている。 4月10日大友軍、土持親成の縣松尾城を攻略し、土持氏滅亡。以後、11月まで佐伯宗天(惟教)が「牟志賀」(現延岡市無鹿町)に在陣する。 9月6日9月4日に臼杵を出発した大友宗麟一行、海路で縣に入る(フロイス『日本史』)。同行のイエズス会宣教師・修道士はフランシスコ・カブラル、ルイス・デ・アルメイダ、アンドレ・ドゥオーリア、ジョアン・デ・トルレス(日本人)。「牟志賀」(現延岡市無鹿町)に仮の司祭館と教会を建て、以後毎日、オルガン音楽を伴ったミサを行なう。宗麟と妻のジュリア、その他家臣たちも礼拝に訪れる(フロイス『日本史』)。 9月11日 毛利領である備後・鞆に滞在中の将軍・足利義昭が島津氏に対して、自身の上洛への協力および毛利氏と敵対する大友領への侵攻・奪取を求める御内書を発給する。 10月20日大友軍、高城を包囲。このとき、大友宗麟はカブラルらと共に「牟志賀」に留まっていた。 島津家久、山田有信の守る新納院高城(宮崎県児湯郡木城町)に入る。 大友軍による兵糧攻め。 11月9日 - 12日 高城川原の戦い(通称としてはいわゆる「耳川の戦い」として認知されている合戦)島津軍の先遣隊が小丸川の南の台地上に陣取る。 島津軍、河原之陳との内通を画策(後に内通成功。『薩藩旧記雑録』) 11月11日 ゲリラ戦などで松山之陳を焼き討ちにする。 11月12日 島津軍の本隊(島津義久隊)、根白坂上(陣之内)に到着。両軍が木城町下鶴付近で合戦に及び、緒戦で島津方の北郷時久・北郷久盛討死。 戦況が拮抗しているところを老瀬坂上の陳から島津以久が東から攻撃。高城の篭城兵も西から攻撃したため、態勢を整える為に大友軍は豊後方面に撤退を開始する。その際に耳川方面へ撤退した一部部隊で溺死者が発生。これを受けて「耳川の戦い」と通称される。 11月12日夜、大友宗麟、態勢を整える為に牟志賀の本陣から豊後へ一時撤退(『川上久辰耳川日記』、フロイス『日本史』)。 11月14日 縣土持氏が島津氏に被官(『川上久辰耳川日記』)し、縣は島津領となる。
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