南禅寺の決戦とは? わかりやすく解説

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南禅寺の決戦

1937年京都南禅寺行われた木村義雄八段阪田三吉大勝負
木村八段初手7六歩に対し阪田二手目、9四歩と指したことで有名。

南禅寺の決戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:11 UTC 版)

木村義雄 (棋士)」の記事における「南禅寺の決戦」の解説

坂田三吉関西名人1937年昭和12年2月5日 - 11日。]

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南禅寺の決戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/12/27 05:11 UTC 版)

坂田三吉 (棋士)」の記事における「南禅寺の決戦」の解説

坂田復帰記念し読売新聞社主催で特別対局が行われることになった。既に名人関根引退を表明しており、関根弟子次期名人最有力であった木村義雄対局に臨むことになる。 対局舞台京都南禅寺1937年昭和12年2月5日から7日間持ち時間30時間というルールの下で行われた現在の公式戦持ち時間が最も長い棋戦名人戦の9時間であり、名人戦創設当初でも15時間の持ち時間指されていたことからも、30時間という持ち時間は非常に長い。このとき66歳の坂田にとっては厳し戦いになることが予想された。 この対局後手となった坂田が2手目に△9四歩と指した(「坂田端歩突き」)。当時常識では後手ありながらなお1手損とするのと同様であるこの指し手は、関西棋界背負っていた坂田の、東京へ反骨精神表れとも見られている。 当時は非常に注目集めた勝負であり、織田作之助新聞坂田端歩突き知り感激して坂田はやったぞ。坂田はやったぞ。」とつぶやいたと、作品「聴」で回想している(織田作之助坂田ファンで、二度作品坂田取り上げている)。一方で正攻法将棋重んじ奇手小技潔しとしなかった木村義雄この手に「これには私もたまげたが、同時に『ははん、これは』と思った」とのちの自著記している。 結局この一手響いた形となり、結果95手で先手木村義雄の勝ち。のちに坂田孫弟子に当たる内藤國雄は、自著坂田三吉名局集」の中で、この南禅寺の決戦を「三百七十年に及ぶ将棋歴史の中で、最大の一番」と記している。 読売新聞社観戦記者である西條一によると、当時関根金次郎名人位返上し木村義雄らによる第1期名人決定リーグ戦のさなかであった名人戦東京日日新聞現在の毎日新聞社)が主催していたが、小さな新聞社であった読売名人権威逆手取りリーグ戦の上位で名人位獲得有力視されていた木村義雄花田長太郎2人実力者坂田対局させることを企画したという。名人位失墜恐れ毎日反発したが、木村が「(もし対局受け入れられないなら)将棋大成会脱退し個人として参加する」ことを宣言して対局実現した。このことは、木村そこまで言わせるほど坂田対戦できるということ魅力があったことを示している。 花田との対局1937年昭和12年3月)は「天竜寺の決戦」と呼ばれ、このときは後手となった坂田が2手目に△1四歩と南禅寺とは反対端歩突いている。結果169手で花田の勝ちとなった

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南禅寺の決戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:46 UTC 版)

坂田三吉」の記事における「南禅寺の決戦」の解説

坂田復帰記念し読売新聞社主催で特別対局が行われることになった。既に名人関根引退を表明しており、関根弟子で、当時行われていた第一期実力制名人戦での、最有力優勝候補であった木村義雄花田長太郎対局に臨むことになる。 木村との対局舞台京都南禅寺1937年昭和12年2月5日から7日間持ち時間30時間というルールの下で行われた現在の公式戦持ち時間が最も長い棋戦名人戦の9時間であり、名人戦創設当初でも15時間の持ち時間指されていたことからも、30時間という持ち時間は非常に長い。このとき66歳の坂田にとっては厳し戦いになることが予想された。 この対局後手となった坂田が2手目に△9四歩と指した(「坂田端歩突き」)。当時常識では後手ありながらなお1手損とするのと同様であるこの指し手は、関西棋界背負っていた坂田の、東京へ反骨精神表れとも見られている。 当時は非常に注目集めた勝負であり、織田作之助新聞坂田端歩突き知り感激して坂田はやったぞ。坂田はやったぞ。」とつぶやいたと、作品「聴」で回想している(織田作之助坂田ファンで、二度作品坂田取り上げている)。一方で正攻法将棋重んじ奇手小技潔しとしなかった木村義雄この手に「これには私もたまげたが、同時に『ははん、これは』と思った」とのちの自著記している。戦型坂田向かい飛車木村居飛車となる。 「坂田端歩突き」は当時棋士からも坂田がわざと不利な条件指していると認識はされていたが、『イメージ読み将棋観』(2008年)で現在のプロ棋士の目からは、この端突き一手には後手メリットはないが、的確に咎めるのは難しい、とくに▲2六歩の居飛車後手一手損角換わりとなるので、先手振り飛車模様で端でなく中央志向の▲5六歩が良いではないかとみている。また後手端歩緩手になるのは相振り飛車など、逆に生きるのが後手振り飛車先手居飛車一局とみているので、振り飛車とくに中飛車四間飛車で、三間飛車石田流などでは△9四歩が緩手なくなってしまう可能性があるとしている。また平成になってから2008年までに公式棋戦では2局指されて、いずれも先手が2勝している。 結局この一手響いた形となり、結果95手で先手木村義雄の勝ち。のちに坂田孫弟子に当たる内藤國雄は、自著阪田三吉名局集』(講談社, 1979)の中で、この南禅寺の決戦を「三百七十年に及ぶ将棋歴史の中で、最大の一番」と記している。

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