南禅寺の決戦
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対坂田三吉関西名人、1937年(昭和12年)2月5日 - 11日。]
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南禅寺の決戦
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坂田の復帰を記念し、読売新聞社主催で特別対局が行われることになった。既に名人の関根は引退を表明しており、関根の弟子で次期名人の最有力者であった木村義雄が対局に臨むことになる。 対局の舞台は京都の南禅寺。1937年(昭和12年)2月5日から7日間、持ち時間30時間というルールの下で行われた。現在の公式戦で持ち時間が最も長い棋戦は名人戦の9時間であり、名人戦は創設当初でも15時間の持ち時間で指されていたことからも、30時間という持ち時間は非常に長い。このとき66歳の坂田にとっては厳しい戦いになることが予想された。 この対局は後手となった坂田が2手目に△9四歩と指した(「坂田の端歩突き」)。当時の常識では後手でありながらなお1手損とするのと同様であるこの指し手は、関西の棋界を背負っていた坂田の、東京への反骨精神の表れとも見られている。 当時は非常に注目を集めた勝負であり、織田作之助は新聞で坂田の端歩突きを知り、感激して「坂田はやったぞ。坂田はやったぞ。」とつぶやいたと、作品「聴雨」で回想している(織田作之助は坂田ファンで、二度も作品に坂田を取り上げている)。一方で正攻法の将棋を重んじ、奇手や小技を潔しとしなかった木村義雄はこの手に「これには私もたまげたが、同時に『ははん、これは』と思った」とのちの自著に記している。 結局この一手が響いた形となり、結果は95手で先手の木村義雄の勝ち。のちに坂田の孫弟子に当たる内藤國雄は、自著「坂田三吉名局集」の中で、この南禅寺の決戦を「三百七十年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と記している。 読売新聞社の観戦記者である西條耕一によると、当時は関根金次郎が名人位を返上し、木村義雄らによる第1期の名人決定リーグ戦のさなかであった。名人戦は東京日日新聞(現在の毎日新聞社)が主催していたが、小さな新聞社であった読売は名人の権威を逆手に取り、リーグ戦の上位で名人位獲得が有力視されていた木村義雄、花田長太郎の2人の実力者と坂田を対局させることを企画したという。名人位の失墜を恐れる毎日は反発したが、木村が「(もし対局が受け入れられないなら)将棋大成会を脱退し、個人として参加する」ことを宣言して対局は実現した。このことは、木村にそこまで言わせるほど坂田と対戦できるということに魅力があったことを示している。 花田との対局(1937年(昭和12年)3月)は「天竜寺の決戦」と呼ばれ、このときは後手となった坂田が2手目に△1四歩と南禅寺とは反対の端歩を突いている。結果は169手で花田の勝ちとなった。
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南禅寺の決戦
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坂田の復帰を記念し、読売新聞社主催で特別対局が行われることになった。既に名人の関根は引退を表明しており、関根の弟子で、当時行われていた第一期の実力制名人戦での、最有力優勝候補であった、木村義雄と花田長太郎が対局に臨むことになる。 木村との対局の舞台は京都の南禅寺。1937年(昭和12年)2月5日から7日間、持ち時間30時間というルールの下で行われた。現在の公式戦で持ち時間が最も長い棋戦は名人戦の9時間であり、名人戦は創設当初でも15時間の持ち時間で指されていたことからも、30時間という持ち時間は非常に長い。このとき66歳の坂田にとっては厳しい戦いになることが予想された。 この対局は後手となった坂田が2手目に△9四歩と指した(「坂田の端歩突き」)。当時の常識では後手でありながらなお1手損とするのと同様であるこの指し手は、関西の棋界を背負っていた坂田の、東京への反骨精神の表れとも見られている。 当時は非常に注目を集めた勝負であり、織田作之助は新聞で坂田の端歩突きを知り、感激して「坂田はやったぞ。坂田はやったぞ。」とつぶやいたと、作品「聴雨」で回想している(織田作之助は坂田ファンで、二度も作品に坂田を取り上げている)。一方で正攻法の将棋を重んじ、奇手や小技を潔しとしなかった木村義雄はこの手に「これには私もたまげたが、同時に『ははん、これは』と思った」とのちの自著に記している。戦型は坂田の向かい飛車に木村の居飛車となる。 「坂田の端歩突き」は当時の棋士からも坂田がわざと不利な条件で指していると認識はされていたが、『イメージと読みの将棋観』(2008年)で現在のプロ棋士の目からは、この端突きの一手には後手のメリットはないが、的確に咎めるのは難しい、とくに▲2六歩の居飛車も後手一手損角換わりとなるので、先手は振り飛車模様で端でなく中央志向の▲5六歩が良いのではないかとみている。また後手端歩が緩手になるのは相振り飛車など、逆に生きるのが後手振り飛車対先手の居飛車の一局とみているので、振り飛車とくに中飛車や四間飛車で、三間飛車は石田流などでは△9四歩が緩手でなくなってしまう可能性があるとしている。また平成になってから2008年までに公式棋戦では2局指されて、いずれも先手が2勝している。 結局この一手が響いた形となり、結果は95手で先手の木村義雄の勝ち。のちに坂田の孫弟子に当たる内藤國雄は、自著『阪田三吉名局集』(講談社, 1979)の中で、この南禅寺の決戦を「三百七十年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と記している。
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