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きむら-よしお ―よしを 【木村義雄】

(1905-1986) 棋士東京生まれ1937年昭和12第一名人となり五期10年保持52年引退し一四世名人を襲位。


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木村義雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/08 06:17 UTC 版)

 木村義雄 十四世名人(八段)
名前 木村義雄
生年月日 1905年2月21日
没年月日 1986年11月17日(満81歳没)
棋士番号 2 
出身地 東京都墨田区 
師匠 関根金次郎十三世名人 
永世称号 十四世名人
段位 十四世名人(八段)
戦績
タイトル獲得合計 8期
一般棋戦優勝回数 2回

木村 義雄(きむら よしお、1905年明治38年)2月21日 - 1986年昭和61年)11月17日)は、将棋棋士十四世名人棋士番号は2。東京都墨田区出身。

目次

常勝将軍

墨田区の職人の子として育ち、幼い頃から将棋が強く、大人にも負けなかったという。浅草の将棋道場で指していたところを関根金次郎に見込まれ、極貧の生活のなか、柳沢保恵伯爵邸での下働きや外務省の給仕などを務めながら将棋に励んだ。1938年(昭和13年)の第1期名人戦に於いて名人になって以来、最強を誇り、当時の上位棋士を全て指し込み[要出典]、「常勝将軍」と呼ばれ恐れられた。

将棋界の第一人者として戦前・戦中の将棋界に名を轟かせ、一般人にも相撲で不敗を誇った双葉山と並んでよく知られていた。

戦後、若手棋士たちは木村を倒すために持ち時間の短い将棋に有利な急戦腰掛け銀定跡の研究を行い、1947年(昭和22年)の第6期名人戦で塚田正夫は木村から名人位を奪取した。しかし木村は、先手必勝の角換わり腰掛け銀定跡である木村定跡を完成し、1949年第8期名人戦(この期のみ五番勝負)では3勝2敗で塚田を破り、名人に復位する勝負強さを見せた。その後、第9期(1950年)、第10期(1951年)名人戦ではそれぞれ大山康晴升田幸三を退けた。しかし、1951年(昭和26年)の暮れから行われた第1期王将戦では、升田に香を引かれる事態になり、香落ち戦の第6局を升田が対局拒否をする陣屋事件が起こった。木村は第11期名人戦(1952年)で遂に大山に敗れ、「よき後継者を得た」との言葉を残し、引退した(この時勝った大山は、敗れた木村に深々と頭を下げた)。

また、現在の日本将棋連盟の母体である将棋大成会を組織し、将棋の近代化に尽くした。

坂口安吾は、第8期名人戦第5局の観戦記「勝負師」において、「彼(木村)は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。」と述べ、また「青春論」では「彼(木村)は心身あげて盤上にのたくり廻るという毒々しいまでに驚くべき闘志をもった男である」と讃えている。

弟子に花村元司がおり、晩年は弟子の花村とともに仲良く競輪場へ通っていた。1985年に花村に先立たれ、木村は「(花村は)とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と悲しんだという。

三男の木村義徳も棋士になり八段まで昇り、引退後に贈九段に列せられたことから、近代将棋史上2組目の親子九段となった[1]

報知新聞嘱託として長く新聞記事を執筆し、名文家として知られた。

名勝負の数々

木村には名勝負と呼ばれているいくつかの対局がある。それを以下に記す。

南禅寺の決戦
阪田三吉関西名人、1937年(昭和12年)2月5日 - 11日。
関西名人を称していた阪田を破り、東西に分裂していた将棋界を統一した一戦として、当時のマスコミに宣伝された一戦である。近代将棋の第一人者の木村と、関西将棋の第一人者阪田の決戦ということもあり、大評判となった。阪田の初手が端歩突きであったことも有名である。織田作之助に至っては新聞で報じられた端歩突きを見て「初めて感動というものを知った」と言わしめたほどであった(「聴雨」)。しかし、対局そのものは将棋から遠ざかっていた対戦相手阪田の実力が衰えており、木村が終始優勢で、木村は非常に楽観的に指すことが出来、三日目終了後、報知新聞の記事を書いて酒を飲むほどリラックスしていた。逆に阪田は火鉢をかき回すなどあせりの色が濃く、付き添いの娘(阪田玉枝)をしきりに見ていたという。
阪田の将棋に詳しい福崎文吾によれば、阪田の将棋の中でももっとも不出来な対局であるといい、阪田に代表される力将棋の時代が終わり、木村に代表される理論に基づいた近代将棋の時代が来たことを告げる対局であったといえる。
定山渓の決戦
土居市太郎八段、1940年(昭和15年)6月25 - 27日(第2期名人戦第3局)。
2回に及ぶ千日手指し直しの末に行われた一局。
済寧館の決戦
塚田正夫名人、1949年(昭和24年)5月24、25日(第8期名人戦第5局)
皇居内済寧館で行われた。「別冊文藝春秋」誌(昭和24年第12号)に掲載された坂口安吾の観戦記「勝負師」に詳しい。



  1. ^ 2007年現在、親子九段は板谷四郎板谷進と木村親子のみ。木村親子に師弟関係はなく、義徳は加藤治郎名誉九段の弟子である。
  2. ^ 順位戦では2期だけしか指していないが、順位戦での負け越しがないまま引退した唯一のケースである。(第2期で7勝7敗、第3期で7勝2敗)


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