名勝負の数々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 02:44 UTC 版)
木村には名勝負と呼ばれているいくつかの対局がある。それを以下に記す(段位、タイトルはその時点のもの)。 南禅寺の決戦 対坂田三吉関西名人、1937年(昭和12年)2月5日 - 11日。] 関西名人を称していた坂田を破り、東西に分裂していた将棋界を統一した一戦として、当時のマスコミに宣伝された一戦である。近代将棋の第一人者の木村と、関西将棋の第一人者坂田の決戦ということもあり、大評判となった。坂田の初手が端歩突きであったことも有名である。織田作之助に至っては新聞で報じられた端歩突きを見て「初めて感動というものを知った」と言わしめたほどであった(「聴雨」)。しかし、対局そのものは将棋から遠ざかっていた対戦相手坂田の実力が衰えており、木村が終始優勢で、木村は非常に楽観的に指すことが出来、三日目終了後、報知新聞の記事を書いて酒を飲むほどリラックスしていた。逆に坂田は火鉢をかき回すなどあせりの色が濃く、付き添いの娘(坂田玉枝)をしきりに見ていたという。 坂田の将棋に詳しい福崎文吾によれば、坂田の将棋の中でももっとも不出来な対局であるといい、坂田に代表される力将棋の時代が終わり、木村に代表される理論に基づいた近代将棋の時代が来たことを告げる対局であったといえる。 定山渓の決戦 対土居市太郎八段、1940年(昭和15年)6月25 - 27日(第2期名人戦第3局)。 2回に及ぶ千日手指し直しの末に行われた一局。土居の唯一の勝局になったが、木村は土居を「天才」と賞賛した。 済寧館の決戦 対塚田正夫名人、1949年(昭和24年)5月24、25日(第8期名人戦第5局) 皇居内済寧館で行われた。木村が二年前に塚田に奪われた名人位を奪還した一番。「別冊文藝春秋」誌(昭和24年第12号)に掲載された坂口安吾の観戦記「勝負師」に詳しい。
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