南北朝時代の没落と別系統の大胡氏とは? わかりやすく解説

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南北朝時代の没落と別系統の大胡氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 16:40 UTC 版)

大胡氏」の記事における「南北朝時代の没落と別系統の大胡氏」の解説

観応元年1350年)には大胡氏山上氏とともに足利尊氏方の大嶋義政の下で足利直義側の桃井直常らと笠懸野戦って敗れるなど室町期上野活動していた。鹿島文書には、貞治4年1365年大胡掃部助秀能が大胡上総入道跡が領した常陸国土地鹿島神宮寄進した記録が残る。1373年には大胡秀重が長楽寺田畑寄進している。 その後、「上総入道跡」は新田氏与えられており、元弘の乱鎌倉幕府方についた大胡氏所領没収され没落したとも指摘される。『群馬県百科事典』は惣領大胡上総入道跡が南北朝期滅亡し大胡氏一族が跡を継いだとしている。 文明元年1469年)、川越城太田資清宗祇心敬などのを招き主催した連歌会(河越千句)には、大胡氏と伝わる「修茂」が出席している。川越城出入り武士とみられるが、彼の経歴不詳である。 また大胡城横瀬国繁によって攻略されたと伝わり益田氏城主となったという。『藤原姓益田氏系図略記』(太田市個人所蔵)では、藤原秀郷9代孫の益田政義から始まり、さらに6代後の行綱が大胡城築城したという。次の行茂は嘉吉元年1441年討死し、享徳年間には大胡城3代目の修茂が那波氏攻撃を防ぐも、修茂の子・茂政のとき那波氏攻勢負け新田逃れた伝えている。 のちに大胡郷は厩橋城によった長野氏勢力下に入り大胡氏はこの地を追われた。または長野氏一族大胡氏継承したともいう。ただし藤原姓大胡氏一族残っていたらしく、上杉輝虎謙信)に従う上州諸将記載され永禄4年1561年)の「関東幕注文」に大胡氏がみえる。 一族の上泉氏は、大胡城支城の上泉城支配して大胡城保持し続けたが、上泉信綱のとき後北条氏攻勢大胡城失った上杉謙信大胡周辺支配した時期大胡常陸介高繁という名も史料みられるが、彼は毛利姓であるなどの理由から、大胡重俊の家系とは異なり厩橋城主・北条高広一族考えられている。 また、一族大胡重行後北条氏北条氏康招きを受け、大胡城から武蔵国牛込移った永禄2年1559年)の「小田原衆所領役帳」に、大胡民部江戸牛込比々谷本郷などを所領とするため、永禄年間には既に牛込にいたとされる同地赤城神社(現在は移転)を創建したと伝わる。牛込移った大胡一族は勝行のとき牛込氏称している。

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