南北朝時代の没落と別系統の大胡氏
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「大胡氏」の記事における「南北朝時代の没落と別系統の大胡氏」の解説
観応元年(1350年)には大胡氏は山上氏とともに足利尊氏方の大嶋義政の下で足利直義側の桃井直常らと笠懸野で戦って敗れるなど室町期も上野で活動していた。鹿島文書には、貞治4年(1365年)大胡掃部助秀能が大胡上総入道跡が領した常陸国の土地を鹿島神宮へ寄進した記録が残る。1373年には大胡秀重が長楽寺へ田畑を寄進している。 その後、「上総入道跡」は新田氏に与えられており、元弘の乱で鎌倉幕府方についた大胡氏は所領を没収され没落したとも指摘される。『群馬県新百科事典』は惣領・大胡上総入道跡が南北朝期に滅亡し大胡氏は一族が跡を継いだとしている。 文明元年(1469年)、川越城で太田資清が宗祇・心敬などのを招き主催した連歌会(河越千句)には、大胡氏と伝わる「修茂」が出席している。川越城出入りの武士とみられるが、彼の経歴は不詳である。 また大胡城は横瀬国繁によって攻略されたと伝わり、益田氏が城主となったという。『藤原姓益田氏系図略記』(太田市の個人所蔵)では、藤原秀郷9代孫の益田政義から始まり、さらに6代後の行綱が大胡城を築城したという。次の行茂は嘉吉元年(1441年)討死し、享徳年間には大胡城3代目の修茂が那波氏の攻撃を防ぐも、修茂の子・茂政のとき那波氏の攻勢に負け新田へ逃れたと伝えている。 のちに大胡郷は厩橋城によった長野氏の勢力下に入り、大胡氏はこの地を追われた。または長野氏一族が大胡氏を継承したともいう。ただし藤原姓の大胡氏一族は残っていたらしく、上杉輝虎(謙信)に従う上州の諸将が記載された永禄4年(1561年)の「関東幕注文」に大胡氏がみえる。 一族の上泉氏は、大胡城支城の上泉城を支配して大胡城を保持し続けたが、上泉信綱のとき後北条氏の攻勢で大胡城を失った。 上杉謙信が大胡周辺を支配した時期、大胡常陸介高繁という名も史料にみられるが、彼は毛利姓であるなどの理由から、大胡重俊の家系とは異なり厩橋城主・北条高広の一族と考えられている。 また、一族の大胡重行が後北条氏の北条氏康の招きを受け、大胡城から武蔵国牛込に移った。永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に、大胡民部が江戸牛込・比々谷本郷などを所領とするため、永禄年間には既に牛込にいたとされる。同地に赤城神社(現在は移転)を創建したと伝わる。牛込に移った大胡一族は勝行のとき牛込氏を称している。
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