北郷氏とは? わかりやすく解説

北郷氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/22 00:01 UTC 版)

北郷氏(ほんごうし)は、薩摩国大名島津氏の有力分家。南北朝時代の島津宗家4代当主・島津忠宗の子、資忠よりはじまる[1]。資忠は北朝方として功があり、足利氏より薩摩迫一帯(現・宮崎県都城市山田町)の地を与えられ、郷名を取って北郷氏を称した。その直系は室町時代から幕末にかけ日向国都城一帯を治めたが、江戸時代に島津姓に復したため都城島津家ともいう。


注釈

  1. ^ 忠智(久理)は光久より卍紋を拝領使用しており、次代の忠置(久龍)も同様であるべきと元禄9年11月6日藩から意向をうけたが、兼てより十文字紋を皆用いてきたこと、卍紋を用いていたが所伝の武具は皆十文字紋であり、新造・修補の武具も十文字紋であったとの忠置の抗弁により元禄10年2月10日に十文字紋を免許された[2]
  2. ^ 宝永2年、本家の家紋と区別するために修正されたので、丸と十文字とが離れている。
  3. ^ 18代久理の妻が垂水島津氏と入来院氏を通して北郷時久の子孫であるため、女系で血統はつながっている。
  4. ^ 当時の当主島津久龍が筑後を名乗っていたため。
  5. ^ 後に島津図書家(宮之城島津家)が加わる。
  6. ^ 大身分が天明6年(1786年)に上級の城下士である寄合並以上の総称とされた後も別格扱いされた。
  7. ^ 都城島津家の家老職に北郷一門の名が見え、都城での北郷氏も存続している。

出典

  1. ^ 太田 1934, p. 1881.
  2. ^ 『宮崎県史 史料編 近世5』所蔵「都城島津家所蔵文書」二四号「鹿児島御廻文書留」中 1995 p.65
  3. ^ 森岡浩 2012, p. 254.
  4. ^ a b 松田敬之 2015, p. 370.
  5. ^ 松田敬之 2015, p. 371.
  6. ^ a b 松田敬之 2015, p. 368.
  7. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 701.
  8. ^ 松田敬之 2015, p. 366.
  9. ^ 都城の文化財 都城島津家墓地”. 都城市. 2023年10月14日閲覧。
  10. ^ 県公安委員長に就任した 島津久友(しまづ・ひさとも)さん”. 宮崎日日新聞 (2018年8月5日). 2019年5月15日閲覧。
  11. ^ 丹羽 1970, p. 361.



北郷氏(都城領主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 15:13 UTC 版)

「北郷氏」の記事における「北郷氏(都城領主)」の解説

1375年永和元年)、北郷資忠の子義久薩摩迫から都之城移り現在の宮崎県都城市の礎を築く。とはいうもののこれ以降北原氏伊東氏新納氏肝付氏といった周辺勢力押され戦国時代初期にはわずかに都之城安永城(現在の宮崎県都城市庄内町)を保つまでに衰えた。 しかし8代目北郷忠相智勇優れた名将で、飫肥割拠する豊州家結んで周辺勢力討ち勢力拡大現在の都城市三股町山之口町そして曽於市一部財部末吉)に及ぶ都城盆地周辺一帯手中に収めた。 この忠相から10代目時久までが北郷氏の全盛期といえるとりわけ9代目の忠親が飫肥豊州家養子となって跡を継いだことで、北郷氏の勢力圏日向国南部占めることとなったのである豊州家伊東義祐敗れて飫肥を失うが、北郷本家領地拡張し、時久の代には大隅の恒吉(現鹿児島県曽於市吉町)や外港内之浦(現鹿児島県肝付町)までも得て日向国諸県郡から大隅国囎唹郡大部分に至る最大版図築いた。 北郷氏は島津氏九州統一戦にも従軍し勇名轟かせ九州攻め入った豊臣秀吉に対して徹底抗戦主張し実際外城に兵を入れ抗戦体制取っていた。結局島津義久の命で降伏し本領安堵を得る。 11代忠虎は島津義弘に従って朝鮮出兵出征し戦地病没する。そして、太閤検地により都城から祁答院(現鹿児島県薩摩郡さつま町)に転封となってしまう。これは事実上減封であり、都城には代わって伊集院忠棟入った。この転封豊臣家てこ入れによる島津家中の建て直し一環であるが、北郷氏は朝鮮出兵従軍遅滞があったためその懲罰減封となった考えられている。 忠虎の子の長千代丸(後の12代忠能)は幼かったため、忠虎の弟三久家督代となり、兵を率いて朝鮮転戦した旧領都城伊集院氏島津氏反乱を起こすと(庄内の乱)、北郷氏は、鎮圧側として旧領奪回のため奮戦し戦後都城復帰することができた。ただし、すべての領地帰ってきたわけではなく大隅国領地のほとんど(財部末吉、恒吉)は島津宗家直轄地となっている。

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北郷氏(平佐北郷)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 15:13 UTC 版)

「北郷氏」の記事における「北郷氏(平佐北郷)」の解説

忠虎の弟の北郷三久は元々三股領主であったが、北郷家の祁答院転封従い新たに平佐郷(のちの薩摩郡平佐村、現在は薩摩川内市一部)の領主となった北郷本家都城復帰後も平佐残って別家立て私領領主となった平佐北郷氏には、薩摩藩城代家老就任した者もおり、幕末まで続いた幕末当主久信は戊辰戦争海軍率い戦功があった。北郷家の家臣家柄に、作家有島武郎の父・有島武がいる。 その他の北郷氏庶流も、薩摩藩士として数家続いている。

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