依田氏とは? わかりやすく解説

依田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/31 03:16 UTC 版)

依田氏(よだし)は、日本氏族。『尊卑分脈』によると清和源氏多田源氏満快流(源満仲の弟)。依田[1]信濃国小県郡依田荘に由来する[注釈 2]


注釈

  1. ^ 尊卑分脈』清和源氏系図では信濃の名族諏訪氏の中世以降の系譜を依田氏に連ねるものともしている。なお同時期の諏訪氏をめぐる系譜は複数存在しており、その詳細は定かではない。
  2. ^ 吾妻鏡』の「乃貢未済の庄々注文」の中に依田庄が記載されている。依田庄の成立時期は不明であるが、前斎院御領として記されているのは鎌倉時代である。
  3. ^ 素戔嗚が有した、「天川依田」は、荒れた不作の土地であった。しかしながら、固有名詞に用いられる「依」が、皇統以前、すなわち神武天皇よりも前の時代の人物や国名に用いられている史実は特筆に値する。「依」が付く人名には、神武天皇の母とされる玉依姫命など多数存在する。人名以外では、建依別(土佐国)、飯依比古讃岐国)、天之狭手依比売(津島)などが挙げられる。
  4. ^ 宝賀氏は「上古に分かれた三輪氏同族の都佐国造の後裔ではないかと思われる」としている。
  5. ^ 歴史的な資料価値には乏しいが、『日本霊異記』には、他田舎人蝦夷とともに、大伴連忍勝が信濃国小県の出身と記されている。
  6. ^ 1973年に刊行された「北佐久郡志」(北佐久郡市役所編)においては、(滋野)盛忠が芦田七郎・信州依田祖と記された「信州滋野氏三家系図」を掲げて滋野氏の家系を説明しているが、滋野氏の後裔として依田氏を説明していない。
  7. ^ 平家物語によれば「木曽は依田城に有りけるが云々」と記されている。
  8. ^ 平家物語や源平盛衰記などによれば、余田次郎が従臣したとあり、上田市誌は余田次郎を依田次郎と解している
  9. ^ 八田氏の始祖である八田知家は頼朝の弟とされている。しかし、知家の子の知基は茂木氏の祖であり、尊卑分脈によれば、出自は藤原北家とされている
  10. ^ 南北朝初期(1330年)頃、飛騨国の依田義胤が依田庄を奪回したとする説[19]もある
  11. ^ 天皇の補佐や詔勅宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担当した中務省の業務を実質的に統括する職位。
  12. ^ 大日本史料第六編之四十九には、「南朝天授三年・北朝永和三年正月八日 幕府評定始、是日、依田元信ヲ評定衆ニ加フ」とあり、花営三代記に「八日、御評定始、御座 佐々木大膳大夫高秀、管領武蔵守細川頼之、二階堂中務少輔行光、問注所町野遠江入道信方、御硯役 問注所代町野掃部助信兼、奏事 飯尾美濃守貞行、孔子 飯尾左近将監国輝」と記され、御座に依田元信が座した。群書類従所収「御評定着座次第」によれば、永和4年(1378年)に開かれた「御評定」においては、正面の御座には将軍足利義満が構え、将軍の右手の側には、管領細川武蔵守頼之、中原掃部頭能直、町野刑部少輔長康、左手側には京極高秀、二階堂中務少輔行照、依田左近大夫入道元信(時朝)が座っていたとしている。義満以外をもって評定衆と呼ばれる。事務方である御硯、奉事、孔子の3人が下方に控えており、この御評定では、孔子の席に諏訪神左衛門尉がついていた。
  13. ^ 信濃に領地があった武家で評定衆となったのは依田氏のみとする旨を指摘するのは、「丸子町誌」(1992)、「佐久市志」(1993)、「上田市誌」(2001)である。その一方で、それに遡る1987年に編纂された、「長野県史」(通史編 第三巻 中世二)においては、室町幕府の評定衆、幕府奉行として活躍した信濃武士として、まず第一に諏訪氏を挙げている。その論拠の出典は、諏訪氏の作による「神氏系図」となっている。「等持院殿(尊氏)征夷大将軍のはじめ、夢窓国師に仰せて信州よりこれ(諏訪円忠)を召し上げられる。右筆方衆として他と異なる奉公のしだい別記これあり。。。」(神氏系図)
  14. ^  大井氏が支配する佐久郡に進出できたのは、幕府奉行人として信濃に下向した、依田左衛門大夫季□の中央工作とする説がある。この説によれば、依田氏は、この流れに乗り芦田郷に進出し芦田を称したという。仮に芦田下野守が依田氏であったとするならば、後述する第8代将軍足利義政の命により芦田下野守が討伐された暁には、依田氏の在京、在府いずれの地位をも失した可能性は高い
  15. ^ 「日本姓氏家系大辞典」によれば、滋野滋氏王ー蔵人淳重ー又三郎為重ー法師僧光ー盛弘ー芦田七郎盛忠ー備前守朝守ー下野守氏久とある。
  16. ^ 市川武治(1993)P7には、高井郡井上一族米持次郎光遠と共に、芦田氏を滅ぼし、依田氏が芦田に入部して芦田を名乗るようになったとある。「北佐久郡誌」にも同様の記述がある。また、武田光弘(1975年)P102では、「(依田)経光の時代に佐久郡芦田村に移住した」事実を記している。
  17. ^  武田光弘(1975年)P36、市川武治(1993)P9によれば、いずれもが滋野氏の家系となる。
  18. ^ 後妻が原因不明の病で急死、布施、小平両氏は泥酔後に沢に転落して死亡、玄義一派の者たちにも良からぬことが続いたうえ、天候不順により領内の農作物が凶作となった
  19. ^ 御嶽堂の場合、古代から続く英多社との合祀とされる。
  20. ^ 海野、禰津、真田のいずれの氏も滋野氏。
  21. ^ 笛吹峠合戦では「上州勢の諸手には、板垣駿府守を大将として、栗原左衛門慰詮冬・日向大和守・小山田左衛門慰・小宮山丹後守・逸見・勝沼・小會・南部に、信州先方蘆田下野守・相木市兵衛慰を差副へられ、其勢 都合七千餘人」。海野合戦では「海野平に戦ふべしとて、則ち彼地に押し押し出さる。(中略)先ず先手の右の方は小山田備中守。信州先方の相木市兵衛慰・望月甚八・蘆田下野守……」。北条攻めの相模川渡河では「斯くて、相模川を渉さるべしとて、其陣列を定めらる。先人は、内藤修理正昌豊・小山田左衛門慰信茂・蘆田下野守・小山田備中守・安中左近・保科弾正忠・諏訪五郎・相木市兵衛……」
  22. ^ 「二万の人数、手分・手腑部府・手与、此備八ヶ条之事。(中略) 八 二、三百宛の備五手ハ、千五百、遊軍也。右を信玄公御家にハ、うき勢と申し候。付、是ハ敵城も攻取、はきて捨に、此遊軍に申付ク。又敵城責取、能城とて抱候へば、此遊軍を番手に置。(中略)此遊軍を信玄公御家にハ、浮勢と申し候。去程に、信州先方侍大将足田下野(芦田下野守)、浮勢の頭也。以上」「甲陽軍鑑末書」(下巻下、七)
  23. ^ 「妙法寺法」には「甲州府中に一國大人様を集り居給候」とあり、「一國大人様」とは、武田家臣中の侍大将級を指す
  24. ^ 「芦田下野屋敷」と呼ばれていた
  25. ^ 「高知席」は家老5人と家老次席の城代1人を輩出する家柄を示す。長野県立歴史館
  26. ^ 佐久市志には「芦田氏(=芦田下野守)は小県郡丸子の依田一族と推定されている」と記述されており、古文書等の根拠は示されておらず、執筆者の推測に止まっている。
  27. ^ 当時の芦田氏が依田氏流だったならば幕府職に就いていた依田氏は停任(ちゃうにん:ちょうにん)などの憂き目に逢った可能性は大きいはずである。
  28. ^ 康真が越前に移封してからは、康真の子孫は芦田姓を名乗った。

出典

  1. ^ 信濃史源考(一) (2001)PP10-12
  2. ^ 寛政重修諸家図(1964)PP205
  3. ^ 小県郡史(1922)PP300ー301
  4. ^ 国史体系第二巻(1897)P499
  5. ^ a b 太田亮(1963)P6528
  6. ^ 太田亮(1963)P5971
  7. ^ 志賀剛(1987)PP258-259
  8. ^ 奈良県史(1987)P366
  9. ^ 宝賀寿男(2015)P185
  10. ^ 太田亮(1963)P1059
  11. ^ 小林栄太郎、遠藤肇(1922)PP247-250
  12. ^ 上田・小県誌刊行会(1986)P297
  13. ^ 武田光弘(1975)P28
  14. ^ 武田光弘(1975)P 117
  15. ^ 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)P225
  16. ^ 上田市誌歴史篇4『上田の荘園と武士』 (2001)PP44-45
  17. ^ 上田市誌歴史篇4『上田の荘園と武士』 (2001)P50
  18. ^ a b 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)P297
  19. ^ a b c 市川武治(1993)P179
  20. ^ 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)PP297-298
  21. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P147「中世法制史料集(一)鎌倉幕府法」追加法701「鎌倉遺文」20484
  22. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)「吾妻鏡」PP144-145
  23. ^ 吾妻鏡
  24. ^ 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)PP299
  25. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)PP145-148
  26. ^ 依田(2012)P57
  27. ^ 桃崎(2020)P 20
  28. ^ a b 桃崎(2020)P 23
  29. ^ 長野県史(1983)P 48
  30. ^ 長野県史(1983)P 49
  31. ^ 長野県史(1983)P 28~ 29
  32. ^ 長野県史(1983)P 36
  33. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)PP161-163 群書類従所収「御評定着座次第」「花営三代記」「後愚昧記」・「奥山庄資料集」「信濃史料」「永享以来御番帳」「文安年中御番帳」「蜷川元親日記」「読史総覧」所収「室町幕府奉行一覧」等参考
  34. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P161
  35. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)PP161-163 群書類従所収「御評定着座次第」「花営三代記」「後愚昧記」・「奥山庄資料集」「信濃史料」「永享以来御番帳」「文安年中御番帳」「蜷川元親日記」「読史総覧」所収「室町幕府奉行一覧」等参考。
  36. ^ a b 市川武治(1993)P180
  37. ^ 佐久市志(1993)P435
  38. ^  「古代天皇家と浅間山」柳沢賢次稿・千曲(2006)P41
  39. ^ 佐久市志(1993)P411
  40. ^ 長野県史(1987)P128-133
  41. ^ 佐久市志(1993)P356-360
  42. ^
    大井越前守と芦田下野守不快の事、然るべからざる候。早々和睦すべきの旨仰せ出され候。よって東国の面々御教書なされ候おわんぬ。若し尚事行かずんば、美濃・越後の御差し遣わさるべきの由、沙汰申すべく候の段堅く仰せ含めらるべく候以上 二月十七日(永享七年) 小笠原殿 足利義政 花押
    —市川武治(1993)PP6-7
  43. ^ 市川武治(1993)P9
  44. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P186「芦田下野守のこと、降参せしむるの由、注進到来、尤も神妙に候、伃って太刀一腰遣わし候なり。 八月三日(永享八年) 足利義政 花押 小笠原治部大輔入道殿」(信濃守護小笠原正透への感状)
  45. ^  丸子町誌 歴史編 上(1992)P186
  46. ^ 市川武治(1993)P8
  47. ^ a b 市川武治(1993)P 15
  48. ^ 山梨依田会(1999)P180
  49. ^ 山梨依田会(1999)PP93−94
  50. ^ 市川武治(1993)P 19
  51. ^ 日本家系協会出版部(1975) 
  52. ^ 市川武治(1993)P 20
  53. ^ a b 市川武治(1993)P 23
  54. ^ 市村到(2016)P102
  55. ^ 市村到(2016)P28 
  56. ^ a b 市村到(2016)P188
  57. ^ 市村到(2016)P189
  58. ^ 市川武治(1993)P P24-25
  59. ^ 市川武治(1993年)P 25
  60. ^ 市川武治(1993)P 25
  61. ^ 鈴木将典/戦国史研究会(2017)P215
  62. ^ 市村到(2016)P261
  63. ^ 市川武治(1993)P191
  64. ^ 鈴木将典/戦国史研究会(2017)P226-229
  65. ^ 長野県立歴史館|(2011)P14
  66. ^ 長野県立歴史館|(2011)P16
  67. ^ 市村到|(2016)P432
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  69. ^ 長野県立歴史館|(2011)P16
  70. ^ a b 市川武治(1993)P 6
  71. ^ 佐久市志(1993)P356
  72. ^ a b 市川武治(1993)P 7
  73. ^ 市川武治(1993)P P8ー9
  74. ^ 尊卑分脈(1904)第8巻・清和源氏満快流P28
  75. ^ 寛政重修諸家譜第三百五十六


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