内乱の一世紀
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内乱の一世紀(ないらんの1せいき)とは、共和政ローマ後期における、紀元前133年のティベリウス・グラックスとローマ元老院(セナトゥス)の対立によるグラックスの死から、紀元前30年にオクタウィアヌスがプトレマイオス朝を滅ぼし地中海世界を統一するまでの、およそ100年をさす。英語などでは共和政ローマの危機(Crisis of the Roman Republic)と呼ばれる。
注釈
- ^ 紀元前220年から紀元前168年の間
- ^ 不当利得返還請求に関するカルプルニウス法(Lex Calpurunia de repetundis)[12]
- ^ 紀元前95年の執政官で当代一の雄弁家。三頭政治のクラッススとは別人
- ^ ノビレス(新貴族)
- ^ ラテン人と同盟市への市民権付与に関するユリウス法(Lex Iulia de civitate Latinis et sociis danda)[32]
- ^ この事例は、よく「マリウスの軍制改革」によって、ローマ軍団が私兵化した結果とされるが、進軍したのはスッラだけでなく同僚執政官も共にであり、ローマ市では激しい抵抗を受けたものの、既存の枠組みから外れているとは言い切れない[39]
- ^ スッラ派長老議員を殺害したプラエトル
- ^ プロスクリプティオの対象者
出典
- ^ 砂田(2018), pp. 2–3.
- ^ 城江, p. 4.
- ^ ブライケン, p. 224.
- ^ ブライケン, pp. 8–9.
- ^ ブライケン, p. 10.
- ^ ブライケン, p. 167.
- ^ ブライケン, p. 168.
- ^ ブライケン, pp. 169–170.
- ^ ブライケン, p. 225.
- ^ 志内, p. 1.
- ^ 志内, pp. 1–4.
- ^ Rotondi, p. 292.
- ^ 大西 上, p. 30.
- ^ 砂田(2008), pp. 1–2.
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- ^ 砂田(2018), p. 20.
- ^ 栗田, p. 135.
- ^ ブライケン, p. 170.
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- ^ 砂田(2018), pp. 55–57.
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- ^ Salmon, pp. 118–119.
- ^ Salmon, pp. 108–109.
- ^ Salmon, pp. 109–110.
- ^ Salmon, pp. 111–113.
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- ^ MRR2, pp. 29–30.
- ^ Rotondi, p. 338.
- ^ 砂田(2018), pp. 1–2.
- ^ 砂田(2018), pp. 4–5.
- ^ 砂田(2018), pp. 15–16.
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- ^ MRR2, pp. 39–40.
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- ^ 砂田(2018), pp. 20–21.
- ^ 砂田(2018), p. 22.
- ^ 砂田(2018), pp. 24–25.
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- ^ 砂田(2018), pp. 32–33.
- ^ 砂田(2018), pp. 34–35.
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- ^ 砂田(2018), p. 37.
- ^ 砂田(2018), pp. 37–40.
- ^ 砂田(2018), pp. 41–43.
- ^ 砂田(2018), pp. 43–46.
- ^ 合阪・鷲田, p. 109.
- ^ 砂田(2018), pp. 58–59.
- 1 内乱の一世紀とは
- 2 内乱の一世紀の概要
- 3 結果
- 4 参考文献
- 5 関連項目
内乱の一世紀
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元老院主導の政治体制は、ローマが単なる都市国家(キウィタス)、あるいは都市国家連合の長であった頃は上手く機能していた。その頃の元老院議員=ローマ貴族は、貴族と言えど単なる地域の有力者に過ぎず、言ってみれば「面倒見の良い者」というに過ぎず、ノブレス・オブリージュによる義務を果たす事を求められる存在であった。特にポエニ戦争ではその機能を十全に発揮した。 しかしローマが地中海全域を勢力圏とする大国になるにつれ、ラティフンディウムの普及により貧富の差が拡大し、元老院議員=ローマ貴族は、特権にあぐらをかき、私利私欲を優先する存在となった。議員の質は低下し、体制も硬直化していった。特に属州総督の地位を利用しての蓄財は、共和政を通じての問題であり続けた。ただ、多くのローマ貴族はパトロヌスとして大勢のクリエンテスを保護する立場であり、「面倒見の良い者」で有り続けた。かつてローマが都市国家である当時は、ほとんどの構成員がローマ貴族=パトロヌスに保護されるクリエンテスであったのが、ローマという国家が拡大するにつれて、ごく一部の身内だけの保護者になってしまい、結果としてローマ貴族が私利私欲を優先するようになったという見方もできる。 そのような状況でグラックス兄弟はローマの抱える問題を見抜き、その改革に着手したが、護民官の立場の弱さ(護民官は武力を持たず、しかも元老院体制の外にあった)故に失敗する。そこから元老院派(閥族派)と民衆派の争い、内乱の一世紀の幕が開ける。 その中で、グラックス兄弟の失敗を踏まえ、武力を有し独裁官の立場で改革に当たったのがルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・ユリウス・カエサルである。スッラは元老院体制を手直しし、建前上は単なる諮問機関であった元老院に実質的な権限を付与し、その存続を図った。さらに定員をそれまでの300から600に倍増させた。騎士階級などの新興有力者を新たに元老院に取り込んだが、定員が増えることで議論百出の末に結論が出ない、といった弊害も悪化した。そしてカエサルは元老院体制の打倒と新体制の樹立を目指し、カエサル暗殺後は後継者のオクタヴィアヌス(アウグストゥス)によって帝政が完成した。
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内乱の一世紀
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詳細は「内乱の一世紀」を参照 対極的に没落の運命をたどったのは、ローマ軍の中核をなしていた自由農民であった。連年の出征によって農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していく。この状況を打開するために、グラックス兄弟が、平民の支持を得て、土地分与の改革を実施しようとした。しかし紀元前133年に兄ティベリウス、紀元前123年に弟ガイウスが反対派によって命を落とし、改革は失敗に終わった。 第三次ポエニ戦争の後も対外征服戦争および反ローマの反乱などによりローマの軍事活動は止むことがなかった(ヌマンティア戦争、ユグルタ戦争、同盟市戦争、ミトリダテス戦争、クィントゥス・セルトリウスの反乱(英語版)、3次の奴隷戦争など)。また、初めてゲルマン人がローマ領内へ侵入したのもこの時期であり(キンブリ・テウトニ戦争)、帝政ローマ期を通じローマを悩ませることとなった。こうした軍事活動の一方で自由農民の没落で軍は弱体化の様相を見せ、早急なる改革の必要性が迫られていた。 こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要があった。その顕著な例が平民の兵士出身のガイウス・マリウスであった。彼は長期にわたる征服戦争への動員で没落した市民兵の代わりに、志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実施した。この改革はローマの軍事的必要を満たし、かつ貧民を軍隊に吸収することでその対策ともなったが、同時に兵士が司令官の私兵となって、軍に対する統制が効かなくなる結果をもたらした。 はじめに軍の首領としてローマ政治に君臨したのはマリウスとルキウス・コルネリウス・スッラであった。彼らの死後、一時的に共和政が平常に復帰したが、やがて次の世代の軍閥が登場した。ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人である。3人は元老院への対抗から第一回三頭政治を結成したが、クラッススの死後、残る2人の間で内戦が起きた。地中海世界を二分する大戦争は、紀元前48年にポンペイウスが死んだ後もしばらく余波を残した。 カエサルは紀元前45年に終身独裁官となったが、王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義者によって暗殺された。この後、カエサル派のオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスが第二回三頭政治を行なった。カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌスは紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスに勝利し、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながらプリンキパトゥス(事実上の帝政)が始まった。
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内乱の一世紀
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ローマ共和国の統治機構は、都市国家のそれから生まれたものであり、広大な領土を統治するのに相応しい物ではなかった。元老院は領土が拡大される度に制度改良を行い諸問題に対処してきたが、大本が都市規模の国家を統治するためのシステムである以上、そうした改革にも限界があった。それゆえローマ領内において様々な歪が生じ始めたが、硬直化した元老院はこれに対し制度の抜本的改革ではなく、軍隊を動員しての抑圧という短絡的な手段で答えた。紀元前139年にローマを揺るがす大反乱が発生(シチリア島奴隷反乱)、騒乱自体は無事鎮圧されたものの、ローマにおける共和政は明らかな行き詰まりを見せ始めていた。この腐敗した共和政を改革するべくティベリウス・グラックスが護民官として制度改革を推進するが、その過程で元老院と対立し、紀元前133年、志半ばにして支持者達と共に非業の死を遂げる。紀元前121年、兄の志を継がんとした弟のガイウスもまた元老院と対立し失脚、数千人と言われる支持者達も処刑された。このグラックス兄弟の死と改革の頓挫は共和政ローマの混迷を決定的なものとし、これにより内乱の一世紀が始まる。 その後、軍人出身の執政官ガイウス・マリウスは上述の「歪」の一つである軍の弱体化と自作農の没落に対処すべく軍制改革(詳細はマリウスの軍制改革を参照)を行ない、軍の質的向上と失業農民の雇用確保に成功。またマリウスは自らの改革により精強さを取り戻したローマ共和国軍を率い、ゲルマニアからローマ領内へ侵入したゲルマン人の軍勢に大勝(キンブリ・テウトニ戦争)するなど、ローマの国防力再建に成果を挙げた。しかし軍内部でイタリアの同盟市民とローマ市民との待遇差が消えたため、彼らは同じローマを構成する住民として市民権の付与を求め始めるようになり、これを既得権益が失われると考えた元老院とローマ市民が拒絶したことで同盟市の大反乱を引き起こすことになる(同盟市戦争)。更に軍を構成する兵士が市民兵から職業軍人へ変化したことで軍からは世俗性が失われ、次第に議会や民衆よりも直近の上司である将軍達に忠誠心を抱くようになり、これは後に起きる内乱の一端となる。 紀元前88年、ついにローマ国内での内部対立はオプティマテス(閥族派)のルキウス・コルネリウス・スッラとポプラレス(民衆派)のガイウス・マリウスの軍事的衝突という内戦状態に発展し、ローマの混迷は頂点に達する。ローマ人の犠牲者は6年間で数万人となった。内戦に最終的な勝利を収めたスッラは独裁官となり、元老院の権限強化を進めた。 スッラの死後、ローマはスパルタクスを首謀者とする第三次奴隷戦争(紀元前73年-紀元前71年)を鎮圧したマルクス・リキニウス・クラッスス、オリエント一帯を征服した軍の実力者グナエウス・ポンペイウス、そしてマリウスの甥として頭角を現しつつあったガイウス・ユリウス・カエサルによる三頭政治へ移行する。三頭政治の一角を占めていたカエサルはガリア戦争(紀元前58年-紀元前51年)の成功によって名声を挙げ、クラッススの死後に起きたポンペイウスらとの内戦にも勝利、ローマの権力を一手に収めると終身独裁官となり急進的な政治改革を推進した。だがこうした大胆な改革と専制的な独裁は元老院を中心とする国内の共和派の反感を買い、紀元前44年3月、反カエサル派の元老院議員たちによって暗殺された。 カエサルの姪の息子にあたり、養子となってその後を継いだオクタウィアヌスはカエサルの腹心であったマルクス・アントニウスらと同盟を結んで共和主義者を打倒した。しかし、その後主導権を巡って両者の対立は深まり再び内戦へと発展してしまう。オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと組んだアントニウスを、紀元前31年アクティウムの海戦で破った。これにより内乱は終結し、約1世紀に渡る混迷に終止符が打たれた。
※この「内乱の一世紀」の解説は、「イタリアの歴史」の解説の一部です。
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