主要穀物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:19 UTC 版)
唐宋変革期に起こった生産力向上の中でも顕著なのが江南における米生産の向上である。この進展を示す言葉として「蘇湖熟れば天下足る」「蘇常熟れば天下足る」という当時の諺がある。 江南が開発され始めた後漢末から現在に至るまで@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}北はコムギの麺食、南はイネの米食が基本である。[要出典]南北朝時代から宋にかけて江南の米生産は大きく向上した。南北朝末期に江南・北部がほぼ同数となった戸数も、宋初には北部の120%、北宋末には140%まで増加した。 江南での増産を齎したのは、新種農具の普及、集約農業、新品種の開発や導入、治水灌漑・農業技術の発達などであり、1戸当たりの農地が狭くなると共に精耕細作が進展している。 水害に強く育ちの早い黄穋稲は北魏時代以来栽培されていたが、宋代に水捌けの悪い水郷での稲作が一般的となるに連れ、水害の多い低湿地で広く栽培されるようになった。福建路を中心に普及していた、干害に強く耕起が少なくてもよく育つ早稲の占城稲は、真宗の大中祥符五年(1012年)に広範囲で干害が起きた際、栽培手順と共に籾種を配布した事により両江淮浙の丘陵地域に広く普及した。他にもインド産の実が大きく粒の多い緑豆が導入されて瞬く間に全土へ広まり、北西部では砂質土や寒暖差の大きい気候でも育つカボチャが広まり栽培された。紀元前4世紀頃から四川省の一部で栽培されていたアフリカ原産のコウリャンが各地で栽培される様になったのも五代~北宋に掛けてである。 また地方ごとに早稲・晩稲・粳米・糯米がそれぞれ数十種の品種を数え、早稲と晩稲による二期作、麦と組合わせる二毛作が行われるようになった。福建路では占城稲は廉価なため主に庶民の食卓に、粳米は高級品として富裕層の食卓に上ったとされ、納税も晩稲の収納を定めていた。 江南は低湿地帯が多く、また満潮後に塩水が残される土地もあったため、まず河川下流部・海岸線に堤防を造り塩田が設けられた。更に「塘」と呼ばれる水路をつくり、河川から導いた真水を堤防の中に注ぎ、「塘」を通じて塩水を海へと排出することで脱塩を進め、低湿地を農業可能な土地へと変化させていった。これを圩田・囲田・湖田などと呼び、総称して水利田という。 両宋交代期の1149年に陳旉が著した『農書』には当時の農業技術が載せられている。例えば土地を丘陵地、山麓、低地、湿地、干地、湖地などに分けて土地の特性に応じた細かな耕作上の注意点が書かれ、特に高地での稲作には精細な言及がされている。施肥については、雑草・落葉・稲藁に泥土をかけて燻した物や桑・牛糞・苧麻・油滓・炭灰などからの肥料の作り方や施し方、その他様々な事例が詳細に述べられている。また犂については、細作深耕の進展で牛耕による長床鋤の使用が一般的になったことが知られる。 稲作以外の面でも、育苗技術の進歩によって寒い早春季の育苗が可能となった事と早稲の普及などにより、長江以南で稲と麦の二毛作が一般化した点にも唐代以前からの進歩がみられる。
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