主要な画家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)
顧愷之(生没年不明)は、東晋の画家。無錫の出身で、生没年には諸説あるが、4世紀後半から5世紀初めにかけて活動した。真蹟は残っていないが、『女史箴図巻』(じょししんずかん、大英博物館)、『洛神賦図巻』などの伝承作(後人の模本)がある。人物画のほか、山水画もよくしたと伝えるが、顧愷之の山水画とされるものは残っていない。伝・顧愷之画は線描が主体で色彩は淡い。彼の線描は後世の画論書において「春蚕吐糸」(しゅんさんとし、春の蚕の吐く糸)、あるいは「高古遊糸描」などと評された。彼は理論家でもあり『画論』などの著書がある。 陸探微(生没年不明)は、呉の人で、南朝宋の文帝から明帝の時代(5世紀)に活動した。顧愷之とともに「顧陸」と称され、謝赫の『古画品録』(「画の六法」を説いた書物)では「第一品」とされている。当代の一流画家で、人物画をよくしたというが、作品は伝わらない。 張僧繇(生没年不明)は、6世紀頃の南朝梁の人。作品は現存しない。各種の画題を描いたが、中でも仏教画を得意とした。以下に述べる「画竜点睛」の故事で知られる画家である。張僧繇は、金陵の安楽寺に4匹の白龍の絵を描いたが、龍に瞳を描かなかった。「瞳を入れると龍が飛び去ってしまうからだ」と張は言ったが、人々は本気にしなかった。そこで張が2匹の龍の瞳を描き入れると、たちまち稲妻が起こって壁をこわし、2匹の龍は飛び去ってしまった。しかし、張が瞳を入れなかった残り2匹の龍はそのまま壁に残っていたという話である。
※この「主要な画家」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「主要な画家」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。
主要な画家(人物画系)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:09 UTC 版)
「中国の絵画」の記事における「主要な画家(人物画系)」の解説
呉道玄(7世紀末 - 8世紀前半)呉道子(ごどうし)とも呼ばれ、唐時代を代表する伝説的な画家である。画名はきわめて高いが、真蹟として確実なものは現存していない。玄宗の時代に宮廷画家として活動し、人物、仏画、山水、花鳥のいずれもよくした。線描に優れ、彼の描いた人物は「呉帯当風」(呉の描いた人物の帯は風になびくようだ)と称された。当時、洛陽と長安の寺院には呉道玄による壁画が300面もあったという。画史類には呉道玄の画業に関するいくつかのエピソードが紹介されている。そのひとつは、彼がある寺院の壁に描いた地獄図に関するもので、その地獄の様子があまりにもおそろしいので、屠殺業者や漁師が因果応報(殺生の罪で来世に地獄に堕ちること)を恐れ、商売替えをしたという。 閻立本(生没年不明)初唐、7世紀に活動した宮廷画家。父の閻毗は隋に仕えた画家、兄の閻立徳も画家で、父、兄とともに建築関係の仕事にも携わっていた。閻立本の真蹟は残らないが、伝承作(後人の模本)として『歴代帝王図』(ボストン美術館)、『歩輦図』(北京故宮博物院)がある。『歴代帝王図』は隋の煬帝までの13人の帝王の肖像を描いた図巻である。 尉遅乙僧(生没年不明)初唐末から盛唐に活動した西域出身の画家。于闐(ホータン)の出身。父の尉遅跋質那(うっちばつしつな)も隋に仕えた画家であった。尉遅乙僧は寺院の壁画などを描いたというが、その作品は現存しない。作風は西域風で、その線描は「屈鉄盤糸」(曲げた鉄やからんだ糸)と称された。 張萱(生没年不明)盛唐の画家。京兆(長安)の人。開元期に史館画直という役職にあった。人物画、特に仕女(宮廷美人)や嬰児(子ども)の絵をよくした。伝承作品に『虢国(かくこく)夫人遊春図』など。また、張萱の原画を北宋・徽宗が模写した『搗練図』が伝わる。 周昉(生没年不明)中唐(8世紀後半)の画家。長安の人。人物画、特に豊満な唐美人図を得意とした。伝承作品に『調琴啜茗(せつめい)図』『揮扇仕女図』など。 韓幹(生没年不明)盛唐の画家。長安の人。画馬で知られ、伝承作品には、玄宗の愛馬を描いた『照夜白図』がある。
※この「主要な画家(人物画系)」の解説は、「中国の絵画」の解説の一部です。
「主要な画家(人物画系)」を含む「中国の絵画」の記事については、「中国の絵画」の概要を参照ください。
- 主要な画家のページへのリンク