中核市昇格から平成の大合併へとは? わかりやすく解説

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中核市昇格から平成の大合併へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 13:45 UTC 版)

相模原市」の記事における「中核市昇格から平成の大合併へ」の解説

1994年平成6年)に地方自治法一部改正されて中核市制度創設され、翌1995年平成7年)の施行により中核市指定始まったが、相模原市人口要件30万人以上)は満たしていても面積要件(100km2)を満たさなかったため、長らく中核市指定受けられなかった。その後2002年平成14年)の改正人口50万人上の市の面積要件削除されたため、翌2003年平成15年4月1日中核市指定された。なお、中核市面積要件2006年平成18年)の改正人口かかわらず全面的に撤廃された。 2002年10月津久井郡属する全4町(城山町津久井町相模湖町藤野町)において住民アンケート実施され、4町全て合併肯定的な結果出た城山津久井両町では相模原市との合併を望む回答多かったのに対し相模湖藤野両町では東京都八王子市との越境合併を望む回答多かったが、八王子市両町打診対し合併特例法期限内の越境合併は困難と回答した2002年11月公益社団法人津久井青年会議所中心となり、住民発議による津久井郡4町による法定合併協議会設置求め署名運動実施し有権者50分の1を大きく上回る6418人(4町合計)の署名集め2003年1月に各町に請求した。この請求は、県内初となる複数市町村からの同一内容発議であったが、この法定協議会設置議案城山津久井両町議会否決相模湖藤野両町可決)し、この議決により、津久井郡4町での合併事実上消滅した2003年7月相模原市と4町が市町村合併に関する研究部会設置、4町は相模原市合併協議申し入れた。 なお、津久井地域4町の人口における年齢比重若年層少なく高齢者が多い)と開発しにくい土地柄から、旧相模原市民には合併メリット合併特例利用した政令指定都市移行可能になる程度でほぼ無に近かった相模原市2004年11月8日 - 11月17日に、旧市1万人を対象にして郵送形式実施した相模原市津久井地域合併に関する市民アンケート」(有効回収率:35.8%)では、合併の是非は「合併するべきである」15.3%、「合併することもやむをえない」30.5%で、「合併するきでない」12.3%、「できれば合併するきでない」18.8%と、合併反対は3割強であった。「どちらともいえない」は17.3%だった。小川勇夫市長津久井地域との合併巡り住民投票実施せず、このアンケート調査結果をもとに津久井郡4町との合併推進した2003年12月になり、藤野町任意合併協議会への不参加表明したことから、4町は合併協議申入れ撤回したが、翌2004年1月城山津久井相模湖3町が相模原市合併協議申し入れ2004年4月任意協議会の「相模原津久井地域合併協議会」を設置した藤野町を除く3町は相模原市との合併目指すこととなった。しかし城山町では町長合併への慎重姿勢見せたため、津久井相模湖両町先行して相模原市との「飛び地合併」を目指すこととなった相模湖町では2004年11月行われた5市町での合併是非を問う住民投票の結果反対票がわずかに賛成票を上回ったが、町長合併協議継続表明し2005年2月に3市町法定協議会の「相模原市津久井町相模湖町合併協議会」を設置した2005年3月15日に3市町合併協定書調印し、各市町議会神奈川県議会可決総務大臣告示経て2006年3月20日津久井町相模湖町相模原市編入され、「平成の大合併期における神奈川県内初の市町村合併となった一方藤野町では2004年6月行われた住民投票の結果賛成多数となったことから、2004年8月相模原市合併協議申入れ2005年4月相模原市と2市町での法定協議会相模原市藤野町合併協議会」を設置した。同町議会合併に慎重姿勢であったが、2005年7月町長選で合併推進派の町長誕生したことで合併協議加速し合併方式相模原市への編入合併期日2007年3月11日として、2006年1月26日合併協定書調印したその後、両市町議会神奈川県議会可決経て2006年8月7日総務大臣告示により合併法的に確定した城山町住民からの直接請求を受け、2005年4月津久井町相模湖町を含む枠組みでの法定協議会相模原津久井地域合併協議会」を設置したが、城山町長(当時)は2005年6月議会答弁単独町制継続表明し、さらに2005年7月協議会では43対1で合併目標期日設定された事に反発して協議会副会長職の辞任届を提出し退席した反対者城山町1人で、辞任届は会長預かり)。その結果協議会2005年11月休止追い込まれ相模原市津久井町相模湖町合併合わせて廃止された。 2005年11月城山町合併推進求め住民による解職請求が行われ、2006年2月19日行われた住民投票の結果賛成多数町長解職請求成立2006年2月26日には合併に関する住民投票賛成票が多数となり、2006年3月19日町長選では合併推進派の町長当選した2006年3月30日には城山町長より合併協議会設置申し入れがあり、藤野町との同時合併目標とする合意書調印、両市町議会可決経て2006年4月12日相模原市と2市町での法定協議会相模原市城山町合併協議会」を設置した任意協議会での協議結果および他の合併協議会における協議内容踏まえた上で迅速な議論進めた3回にわたる協議協定内容全て調ったことから2006年6月7日合併協定書調印、両市町議会神奈川県議会可決経て2006年11月2日総務大臣告示により合併法的に確定した。これにより藤野町城山町2007年3月11日相模原市編入される事が確定し紆余曲折経た津久井郡4町との合併完結することになった2006年11月2日には、相模原市城山町藤野町公共施設等に、新市地図描かれPR看板設置された。キャッチフレーズは、「新・相模原市誕生 ともに築こう 新たな未来」である。「相模原市城山町合併協議会」及び「相模原市藤野町合併協議会」では、新市PRすることを目的に、エコーはがき5万作製し相模原市城山町藤野町所在する郵便局2007年2月1日発行したまた、日本郵政公社南関東支社では、2007年3月9日 - 6月8日の期間、オリジナルフレーム切手「新・相模原市誕生」を、市内所在する郵便局で5,000販売した。さらに、相模原市では、日比野克彦をビジュアルプロデューサーとして『新「相模原市新宿メガキャンペーン』を2007年3月10日 - 3月25日16日間、市の知名度の向上とイメージアップのため、新宿実施した新宿駅鉄道3線(JR東日本小田急京王)で相模原市都心との結節点であり、同駅は乗降客数日本一である。

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