メキシコ独立革命
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メキシコ独立革命(メキシコどくりつかくめい)、またはメキシコ独立戦争(メキシコどくりつせんそう、スペイン語: Independencia de México、英語: Mexican War of Independence)は、スペイン領植民地であったメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の独立に向けた戦争(1810年 - 1821年)。1810年9月16日に始まった当初は植民支配者に対する農民反乱として始まったが、最終的には政教分離や自由主義を掲げ独立を望むリベラル派(liberales)と、カトリックおよび君主制の権威の尊重や身分制・集権制の保持を主張し独立を望まなかった保守派(conservadores)が手を組む意外な展開となり、メキシコ独立へと至った。
メキシコ独立戦争
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「アグスティン・デ・イトゥルビデ」の記事における「メキシコ独立戦争」の解説
1798年から1810年までスペイン軍に在籍し、中尉まで昇進した。1810年にメキシコ独立戦争が勃発した際、独立軍を鎮圧する側であるスペイン軍の一員として闘った。有能な司令官であったイトゥルビデは、1816年に北部メキシコのスペイン軍を指揮すべく配置された。しかし、次第にメキシコ独立軍に同情を寄せるようになり、反乱軍の指導者ビセンテ・ゲレロと秘密交渉をもつに至った。1820年にイトゥルビデは、指揮下のスペイン軍を率いて反乱軍に合流した。この軍は「3つの保証軍(英語版)」(Ejército Trigarante)として知られる。 1821年2月、イトゥルビデとビセンテ・ゲレロはメキシコを君主制国家として独立させる保守的な独立計画である「イグアラ綱領」を公布し、統合された独立メキシコ樹立を呼びかけた。 彼らはともに他の反乱軍の糾合に成功し、メキシコからスペイン王党派を追い出し、イトゥルビデは新政権の首脳となった。この時、歴史的な過ちとして、メキシコを出てゆくスペイン人達が保有している土地とハードカレンシー(信用力のある基軸通貨)とを交換してよいとの協定に署名してしまった。スペイン人らは国中の良質の土地の権利を保有していたため、その代金の支払いでメキシコは持っていたすべての通貨をすぐに使い果たしてしまった。教会の銀の鐘や金の祭壇も溶かされてしまい、メキシコは国際社会に出現した時点で既に破産状態であった。 イトゥルビデは保守派(conservadores)と呼ばれる、ヨーロッパの王家の者を君主とする君主制国家を理想とする層の支持を得、また影響を受けていた。しかし(スペインは依然としてメキシコの奪還をもくろんでいた)ヨーロッパのどの国王もメキシコの要請を受諾しなかったため、ナポレオン1世の例にならい、イトゥルビデ自らが皇帝を名乗るように説得された。
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メキシコ独立戦争(1810年-1821年)
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「メキシコの歴史」の記事における「メキシコ独立戦争(1810年-1821年)」の解説
詳細は「メキシコ独立戦争」を参照 「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照 スペインによる支配は300年続いたが、18世紀後半のボルボン改革の後にメキシコも啓蒙の時代を迎えると、アメリカ独立戦争やフランス革命に影響された土着のクリオーリョたちの間に独立の気運が高まった。1794年にはフアン・ゲレーロの陰謀が、1799年にはマチェーテの陰謀が発覚し、こうしたクリオージョによる独立運動は厳しく弾圧された。 1808年にフランス帝国がスペインに侵攻し、ナポレオン・ボナパルトは兄のジョゼフをホセ1世としてスペイン王位に就けると、それに反発する民衆蜂起を契機として、スペイン独立戦争が始まった。イスパノアメリカ植民地は同王への忠誠を拒否し、1809年にはキトとラパスで、1810年にはカラカスやブエノスアイレス、サンティアゴ・デ・チレ、サンタフェ・デ・ボゴタで自治を求めるクリオージョがフェルナンド7世への忠誠を唱えて植民地政府から行政権を奪取しようと反乱を起こした。メヒコ市でも1808年8月にクリオージョ達が副王イトゥリガライを恫喝し、自治を求めて議会を開いたが、これはガチュピンのクーデターによって破綻した。 このため、1810年9月16日にミゲル・イダルゴ司祭によってスペイン打倒の「ドローレスの叫び」が発表され、メキシコ独立革命が始まり、長い戦いの火蓋が切られた。当初イダルゴの反乱は反スペイン人反乱だったが、インディオ、メスティーソを巻き込んだ大衆反乱となるうちにクリオージョを含んだ富裕な白人とそれ以外の階級闘争となり、クリオージョがイダルゴから離反した。このため8万人をも動員しながらメヒコ市の攻略に失敗し、1811年1月にイダルゴは捕らえられ、7月に反乱を指導したことを悔いて処刑された。 しかし、イダルゴの部下だったメスティーソの神父、ホセ・マリア・モレーロスは民衆を率いて戦いを継続した。モレーロスはアカプルコやオアハカなどの主要都市を攻略して基盤を築き、1813年11月にチルパンシンゴの議会でメキシコ共和国の独立を宣言し、1814年10月にはアパチンガン憲法を制定したが、クリオージョ富裕層の協力を得ることが出来なかったためにこれは挫折した。ナポレオン戦争が終結するとスペインはイスパノアメリカの反乱の鎮圧に本腰を入れだしたために、スペイン軍のアグスティン・デ・イトゥルビデによってモレーロスは敗れ、1815年11月に処刑された。以後は当初の指導者たちはほとんど処刑され、以後独立運動はグアダルーペ・ビクトリアやビセンテ・ゲレーロなどが率いる山間部での散発的なゲリラ部隊のみとなった。 遥か南で解放者シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン・マルティンが諸国を解放する中、黒人、インディオ、メスティーソらの下層民衆による反乱を恐れるペルー、アルト・ペルー、キューバ、プエルトリコ、中央アメリカ、メキシコのクリオージョはスペインの絶対王政を維持しようとしていたが、1820年にスペイン本国で自由主義的なリエゴ革命が勃発すると、王党派・保守派クリオージョは本国で採択された自由主義憲法に反発してスペインへの抵抗を叫ぶようになった。この時流をうまくつかんだクリオーリョの軍人アグスティン・デ・イトゥルビデがメスティーソやインディオを含む独立派ゲリラ軍と、保守的クリオーリョらを、「スペインへの反発と独立志向」という共通点でまとめることに成功し、副王以下の植民地軍は屈服した。1821年にはヌエバ・エスパーニャ副王領は廃止され、メキシコは独立を達成した。
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