ポチョムキンの叛乱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ポチョムキンの叛乱の意味・解説 

ポチョムキンの叛乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:14 UTC 版)

トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「ポチョムキンの叛乱」の解説

そのポチョムキン1905年6月にはようやく完成向かっていたが、6月14日オデッサにて就役備えた試験行っていた際、またも突発的な水兵による叛乱発生した。 その知らせ接した政府は、オデッサ軍管区司令部対しいかなる手を使ってもこれを鎮圧すべしとする命令発した同時に黒海艦隊も独自の対策を講じることとなった6月15日艦隊副司令官F・F・ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将艦長らを召集しポチョムキン対す出撃準備命じた。これに対し艦長らは乗員信用ならないこと、せいぜい准士官辺りまでしか期待できない状況であることを訴えた。ただ、トリー・スヴャチーチェリャのI・A・ヴェニーツキイ艦長とドヴェナッツァチ・アポーストロフのM・N・コランツ艦長だけが、自分乗員請け合った加えて、コランツはポチョムキンをその衝角以って撃沈するか、さもなくば近寄って自爆することによってこれを撃沈する申し出た。 こうして、トリー・スヴャチーチェリャは政府艦隊中核艦として叛乱鎮圧のため出動することとなった

※この「ポチョムキンの叛乱」の解説は、「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の解説の一部です。
「ポチョムキンの叛乱」を含む「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事については、「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の概要を参照ください。


ポチョムキンの叛乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 21:20 UTC 版)

ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)」の記事における「ポチョムキンの叛乱」の解説

本艦起工同時に実質的な乗員編成着手された。このために、第36海兵団編成された。海兵団には、砲術士機関士水雷術士含まれていた。1905年5月に艦が竣工した時点乗員731名を数えそのうち26名が士官であった1905年6月14日艦上水兵による武装蜂起発生した黒海艦隊ではかねてより武装蜂起準備がされていたが、蜂起計画者らは本来1905年秋に決起する計画立てていた。しかし、ポチョムキン突出し計画よりずっと以前蜂起実行移したのである6月14日ポチョムキンはテーンドル湾の沖合い停泊地にて武装試験行っていた。叛乱突発原因は、昼食ボルシチ腐った肉 が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官懲罰加えようとしたことであった。それに対し水兵らはライフル銃取り士官らを武装解除した艦長上級士官のほか、特に憎まれていた士官水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起指導者には、パナース・マチュシェーンコ が選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会指導部選出し武装機関、および逮捕者管理に関する艦の体制整えた蜂起には、テーンドル停泊地にてポチョムキン射撃試験補助をしていた第267号水雷艇乗員合流した。両艦艇は、革命象徴として赤旗掲揚した。 6月14日14時00分ポチョムキン乗員革命宣言した同日夕刻には両艦艇オデッサ到着したオデッサでは、折しもゼネストが行われていた。ポチョムキン水兵らとオデッサ労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキン蜂起最初指導者銃殺されたヴァクレンチュークの葬儀行ったその後ポチョムキン皇帝の軍と警察に対して若干射撃行ったこのような不徹底な、いわば単なるデモに過ぎない行動も、短期的に驚くべき効果発揮した。しかし、6月17日になると反乱鎮圧のため政府軍艦隊派遣されることになった艦隊は、黒海艦隊所属艦隊装甲艦ドヴィエナザット・アポストロフ、ゲオルギー・ポベドノーセツ、トリー・スヴャチーチェリャ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273水雷艇から編成されていた。皇帝ニコライ2世はポチョムキンの叛乱を危険なのであるみなしており、この艦が赤旗掲げたまま黒海遊弋するのを許容することはできない考えていた。そして、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱鎮圧し最悪場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令与えたサンクトペテルブルクにいたチュフニーンは、クリーゲル海軍中将司令官代理として事態対処するよう任じた6月18日早朝オデッサ停泊地にあったポチョムキンでは、乗員たちが町向けて大規模な艦隊接近しつつあるのに気づいていた。艦隊には、5隻の装甲艦と6隻の水雷艇の姿が見えた上級指揮官クリーゲル海軍中将将官旗を掲げた艦隊隊形組んで停泊地接近し雷撃砲撃をもって謀反人たちを撃滅せんとしていた。 ポチョムキン艦隊向かって出航したポチョムキンでは、自分から発砲しないことが決議された。水兵たちは、ほかの艦艇でも蜂起賛同した動き表れることを期待したのである交渉のため艦隊赴くようにとの申し出拒絶したポチョムキン水兵らは、今度艦隊指揮官ポチョムキンへ招く申し出をした。クリーゲル艦隊指揮官乗った旗艦ロスチスラフRostislav)では、「投錨せよ」という信号上げられた。その返答として、ポチョムキンロスチスラフ衝角前に進み出た。しかし、最後の瞬間になって進路変更しポチョムキン装甲艦ロスチスラフと、ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将乗る旗艦トリー・スヴャチーチェリャのあいだを航行した。そして、衝角警戒しつつ、脇へと去ったポチョムキン将官の艦に砲門を向けつつ、艦隊のあいだを縫って航行したしかしながら砲門開かれることはなかった。艦隊艦艇水兵らは叛乱者たちを砲撃することを拒否した。そして、上官たちから禁じられていたにも拘らず甲板上に出て接近するポチョムキンに「歳!」の歓声以って挨拶送った乗員気運危惧したクリーゲルは、全速力公海上へ艦隊移動させる指令出したポチョムキンのもとには、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツが留まった。ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員は、ポチョムキン乗員話し合った結果、自艦の士官たちを逮捕し蜂起合流した。 しかし、のちにゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちのあいだには仲間割れ生じた。そして、ポチョムキンのもとを離れ、艦を政府引き渡した。このことが、ポチョムキン水兵たちに重大な印象残した。彼らのあいだに、不満が募り始めたポチョムキン艦隊との2度目遭遇からオデッサに戻ると、町は彼らに水と食料与えることを拒否した長い議論の末、彼らは黒海対岸にあるルーマニアへ出航することを決議した6月19日ポチョムキン第267号水雷艇伴ってルーマニアコンスタンツァ到着した。しかし、ルーマニア政府ポチョムキン必要物資提供するのを拒んだ革命艦は、フェオドーシヤへ引き返すことになったルーマニア政府から食料燃料水の補給拒否されポチョムキンは、危機的な状況陥った海水ボイラー補給した結果ボイラー故障したフェオドーシヤポチョムキン辿り着いたのは1905年6月22日6時のことであった。そこではすでに皇帝正規軍憲兵団待ち構えていた。上陸した水兵グループ銃火浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァ向けて出航したポチョムキン6月24日コンスタンツァ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府引渡した。翌25日には艦は赤旗降ろし水兵らは政治亡命者として上陸した25日正午ルーマニアの国旗ポチョムキン掲揚された。第267号水雷艇乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストーポリ向けて出航した6月26日には、コンスタンツァ黒海艦隊分遣隊到着した。翌27日ルーマニアロシアポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した7月1日、艦はセヴァストーポリ到着した

※この「ポチョムキンの叛乱」の解説は、「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)」の解説の一部です。
「ポチョムキンの叛乱」を含む「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)」の記事については、「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)」の概要を参照ください。


ポチョムキンの叛乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 05:59 UTC 版)

ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事における「ポチョムキンの叛乱」の解説

1905年6月14日オデッサにて就役備えた試験行っていたポチョムキン=タヴリーチェスキイ公にて、水兵による突発的な叛乱発生した。 その知らせ接した政府は、オデッサ軍管区司令部対しいかなる手を使ってもこれを鎮圧すべしとする命令発した同時に黒海艦隊も独自の対策を講じることとなった6月15日艦隊副司令官F・F・ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将艦長らを召集しポチョムキン対す出撃準備命じた6月16日午前1時、セヴァストーポリからオデッサ向けてヴィシュネヴェーツキイ少将乗るトリー・スヴャチーチェリャを旗艦に、艦隊装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツ、ドヴェナッツァチ・アポーストロフ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273水雷艇からなる政府艦隊第一陣が出港した。しかし、提督自分艦隊水兵らがポチョムキンの叛乱兵に同調して蜂起することを警戒し容易にオデッサに近寄るべきではないと考えた。そのため、政府艦隊オデッサ入りは翌17日までずれ込んだ。しかし、ヴィシュネヴェーツキーのポチョムキンへの投降呼びかけ失敗終わり逆にポチョムキンから「全船員からなる協議会本艦へ送るよう懇願する」とする打電がトリー・スヴャチーチェリャに対してなされた。ポチョムキンの叛乱者らは、旗艦から代表を送るよう要請しつつ、その水兵たちと直接コンタクト取って蜂起取り込もう企図していると推定された。ポチョムキン接近したため、ヴィシュネヴェーツキイは戦闘警報をして公海上へ逃れたオデッサへの往復に、艦隊4時間ほどを費やした

※この「ポチョムキンの叛乱」の解説は、「ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の解説の一部です。
「ポチョムキンの叛乱」を含む「ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事については、「ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ポチョムキンの叛乱」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ポチョムキンの叛乱」の関連用語

ポチョムキンの叛乱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ポチョムキンの叛乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトリー・スヴャチーチェリャ (戦艦) (改訂履歴)、ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦) (改訂履歴)、ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS