ポチョムキンの叛乱
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「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「ポチョムキンの叛乱」の解説
そのポチョムキンは1905年6月にはようやく完成に向かっていたが、6月14日、オデッサにて就役に備えた試験を行っていた際、またも突発的な水兵による叛乱が発生した。 その知らせに接した政府は、オデッサ軍管区司令部に対し、いかなる手を使ってもこれを鎮圧すべしとする命令を発した。同時に、黒海艦隊も独自の対策を講じることとなった。6月15日、艦隊副司令官F・F・ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将は艦長らを召集し、ポチョムキンに対する出撃準備を命じた。これに対し、艦長らは乗員が信用ならないこと、せいぜい准士官辺りまでしか期待できない状況であることを訴えた。ただ、トリー・スヴャチーチェリャのI・A・ヴェニーツキイ艦長とドヴェナッツァチ・アポーストロフのM・N・コランツ艦長だけが、自分の乗員を請け合った。加えて、コランツはポチョムキンをその衝角で以って撃沈するか、さもなくば近寄って自爆することによってこれを撃沈すると申し出た。 こうして、トリー・スヴャチーチェリャは政府艦隊の中核艦として叛乱艦鎮圧のため出動することとなった。
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ポチョムキンの叛乱
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「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦)」の記事における「ポチョムキンの叛乱」の解説
本艦の起工と同時に実質的な乗員の編成に着手された。このために、第36海兵団が編成された。海兵団には、砲術士、機関士、水雷術士が含まれていた。1905年5月に艦が竣工した時点で乗員は731名を数え、そのうち26名が士官であった。 1905年6月14日、艦上で水兵による武装蜂起が発生した。黒海艦隊ではかねてより武装蜂起の準備がされていたが、蜂起の計画者らは本来1905年秋に決起する計画を立てていた。しかし、ポチョムキンは突出し、計画よりずっと以前に蜂起を実行に移したのである。 6月14日、ポチョムキンはテーンドル湾の沖合い停泊地にて武装の試験を行っていた。叛乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉 が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたことであった。それに対し、水兵らはライフル銃を取り、士官らを武装解除した。 艦長と上級士官のほか、特に憎まれていた士官は水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起の指導者には、パナース・マチュシェーンコ が選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。 蜂起には、テーンドル停泊地にてポチョムキンの射撃試験の補助をしていた第267号水雷艇の乗員も合流した。両艦艇は、革命の象徴として赤旗を掲揚した。 6月14日の14時00分、ポチョムキンの乗員は革命を宣言した。同日の夕刻には両艦艇はオデッサに到着した。オデッサでは、折しもゼネストが行われていた。ポチョムキンの水兵らとオデッサの労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキンの蜂起の最初の指導者で銃殺されたヴァクレンチュークの葬儀を行った。その後、ポチョムキンは皇帝の軍と警察に対して若干の射撃を行った。 このような不徹底な、いわば単なるデモに過ぎない行動も、短期的には驚くべき効果を発揮した。しかし、6月17日になると反乱鎮圧のため政府軍艦隊が派遣されることになった。艦隊は、黒海艦隊所属の艦隊装甲艦ドヴィエナザット・アポストロフ、ゲオルギー・ポベドノーセツ、トリー・スヴャチーチェリャ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇から編成されていた。皇帝ニコライ2世はポチョムキンの叛乱を危険なものであるとみなしており、この艦が赤旗を掲げたまま黒海を遊弋するのを許容することはできないと考えていた。そして、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を与えた。サンクトペテルブルクにいたチュフニーンは、クリーゲル海軍中将に司令官代理として事態に対処するよう任じた。 6月18日早朝、オデッサの停泊地にあったポチョムキンでは、乗員たちが町に向けて大規模な艦隊が接近しつつあるのに気づいていた。艦隊には、5隻の装甲艦と6隻の水雷艇の姿が見えた。上級指揮官クリーゲル海軍中将の将官旗を掲げた艦隊は隊形を組んで停泊地に接近し、雷撃と砲撃をもって謀反人たちを撃滅せんとしていた。 ポチョムキンは艦隊に向かって出航した。ポチョムキンでは、自分から発砲しないことが決議された。水兵たちは、ほかの艦艇でも蜂起に賛同した動きが表れることを期待したのである。交渉のため艦隊に赴くようにとの申し出を拒絶したポチョムキンの水兵らは、今度は艦隊の指揮官をポチョムキンへ招く申し出をした。クリーゲル艦隊指揮官の乗った旗艦ロスチスラフ(Rostislav)では、「投錨せよ」という信号が上げられた。その返答として、ポチョムキンはロスチスラフの衝角の前に進み出た。しかし、最後の瞬間になって進路を変更し、ポチョムキンは装甲艦ロスチスラフと、ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将の乗る副旗艦トリー・スヴャチーチェリャのあいだを航行した。そして、衝角を警戒しつつ、脇へと去った。ポチョムキンは将官の艦に砲門を向けつつ、艦隊のあいだを縫って航行した。 しかしながら、砲門が開かれることはなかった。艦隊の艦艇の水兵らは叛乱者たちを砲撃することを拒否した。そして、上官たちから禁じられていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキンに「万歳!」の歓声を以って挨拶を送った。 乗員の気運を危惧したクリーゲルは、全速力で公海上へ艦隊を移動させる指令を出した。ポチョムキンのもとには、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツが留まった。ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員は、ポチョムキンの乗員と話し合った結果、自艦の士官たちを逮捕し、蜂起に合流した。 しかし、のちにゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちのあいだには仲間割れが生じた。そして、ポチョムキンのもとを離れ、艦を政府に引き渡した。このことが、ポチョムキンの水兵たちに重大な印象を残した。彼らのあいだに、不満が募り始めた。 ポチョムキンが艦隊との2度目の遭遇からオデッサに戻ると、町は彼らに水と食料を与えることを拒否した。長い議論の末、彼らは黒海の対岸にあるルーマニアへ出航することを決議した。6月19日、ポチョムキンは第267号水雷艇を伴ってルーマニアのコンスタンツァに到着した。しかし、ルーマニア政府はポチョムキンに必要物資を提供するのを拒んだ。革命艦は、フェオドーシヤへ引き返すことになった。 ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキンは、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。フェオドーシヤにポチョムキンが辿り着いたのは1905年6月22日朝6時のことであった。そこではすでに皇帝の正規軍と憲兵団が待ち構えていた。上陸した水兵のグループは銃火を浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァに向けて出航した。 ポチョムキンが6月24日にコンスタンツァへ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。翌25日には艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸した。25日正午、ルーマニアの国旗がポチョムキンに掲揚された。第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストーポリに向けて出航した。 6月26日には、コンスタンツァへ黒海艦隊の分遣隊が到着した。翌27日、ルーマニアはロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。7月1日、艦はセヴァストーポリに到着した。
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ポチョムキンの叛乱
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「ゲオルギー・ポベドノーセツ (戦艦)」の記事における「ポチョムキンの叛乱」の解説
1905年6月14日、オデッサにて就役に備えた試験を行っていたポチョムキン=タヴリーチェスキイ公にて、水兵による突発的な叛乱が発生した。 その知らせに接した政府は、オデッサ軍管区司令部に対し、いかなる手を使ってもこれを鎮圧すべしとする命令を発した。同時に、黒海艦隊も独自の対策を講じることとなった。6月15日、艦隊副司令官F・F・ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将は艦長らを召集し、ポチョムキンに対する出撃準備を命じた。 6月16日午前1時、セヴァストーポリからオデッサへ向けてヴィシュネヴェーツキイ少将の乗るトリー・スヴャチーチェリャを旗艦に、艦隊装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツ、ドヴェナッツァチ・アポーストロフ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇からなる政府艦隊の第一陣が出港した。しかし、提督は自分の艦隊の水兵らがポチョムキンの叛乱兵に同調して蜂起することを警戒し、容易にオデッサに近寄るべきではないと考えた。そのため、政府艦隊のオデッサ入りは翌17日までずれ込んだ。しかし、ヴィシュネヴェーツキーのポチョムキンへの投降呼びかけは失敗に終わり、逆にポチョムキンから「全船員からなる協議会を本艦へ送るよう懇願する」とする打電がトリー・スヴャチーチェリャに対してなされた。ポチョムキンの叛乱者らは、旗艦から代表を送るよう要請しつつ、その水兵たちと直接にコンタクトを取って蜂起へ取り込もうと企図していると推定された。ポチョムキンが接近したため、ヴィシュネヴェーツキイは戦闘警報をして公海上へ逃れた。オデッサへの往復に、艦隊は4時間ほどを費やした。
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