ブーランジェ事件とドレフュス事件
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「フランスの歴史」の記事における「ブーランジェ事件とドレフュス事件」の解説
詳細は「ブーランジェ将軍事件」、「ドレフュス事件」、および「パナマ事件」を参照 1880年代後半から1890年代にかけて、ブーランジェ事件とドレフュス事件といった第三共和政にとって、5月16日事件に次ぐ大きな政治的危機に陥る。 1886年に陸軍大臣に就任した軍人ジョルジュ・ブーランジェは、軍隊の共和主義化・民営化を図り、また炭鉱でのストライキの参加者に対して共感を示したり、ドイツとの国境紛争に対して強硬姿勢を貫くなどは国内の対独復讐主義を再燃させ、国民からの人気を集めた。こうした人気を危険視した政府は、彼を地方へと左遷させるが、こうした対応がかえって国民の反感を呼んだ。1888年にはブーランジェは各地の補欠選挙位立候補し、当選しては辞退するというやり方を繰り返した。こうした運動は1889年1月のパリ補欠選挙で共和派の統一候補を大差で下したことで最高潮となり、興奮した群衆はブーランジェによるクーデターを待望したが、あくまで合法的な政権奪取をこだわっていたことから、クーデターの号令をかけることを躊躇い、ついには愛人ボヌマン夫人の元へと帰ってしまった。このクーデターの延期は彼の人気を大きく失墜させ、運動は沈静化した。政府はただちにブーランジェを国家安寧に対する罪で起訴するが、ブーランジェはベルギーに亡命し、1891年にピストル自殺を遂げた。 ブーランジェ事件に並行して進行していた政治的危機にパナマ事件が挙げられる。パナマ運河事件はスエズ運河建設事業を指導したフェルディナン・ド・レセップスによるパナマ運河建設事業が当初の予想に反して困難を極め、経営難に陥っていた。そうした背景から1888年にパナマ会社はフランス各紙に金を撒き、好意的な事業報告を出させ、さらに議員を買収し、宝くじ付き社債の発行に必要な上下両院の承認を取り付けた。しかしブーランジェ運動のピークが去ったばかりの1889年2月、パナマ会社は破産宣告を受け、総額14億フランの損失を計上し、85万人の小株主に打撃を与えた。歴代の内閣はこの事件を隠し続け、共和派議員は受け取った賄賂を、ブーランジェ派の弾圧のための資金とした。こうした隠蔽は1892年にブーランジェ派の運動家によって暴露され、当時の内閣であったエミール・ルベー(英語版)内閣は崩壊し、クレマンソーといった急進派の政治家も政界を追われた。 1889年にドイツでビスマルクが失脚し、独露再保障条約の更新が停止し、ヴィルヘルム2世による対外政策は独露関係を悪化させていた。そうした背景から、フランスを長年封じ込めていたビスマルク体制が崩壊し、フランスはロシアと接近して、1894年には露仏同盟が結ばれた。こうした緊迫した国際情勢の中で、ドイツは大使館付武官マクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペン(フランス語版)の指揮のもと、フランスへの諜報活動を行なっていた。これらはフランス陸軍砲兵部隊に関する諜報文書が発見され、フランス将校団の中にスパイが一人活動していることが発覚した。新聞社はスパイとユダヤ人とを結びつけ、反ユダヤ主義を煽った。こうした煽りを受け、砲兵将校でたまたまユダヤ人であったアルフレド・ドレフュスが軍事機密を渡したとして、確固たる証拠もないまま有罪判決を受け、軍籍を剥奪した上で、南米ギニアの監獄島への流刑処分となった。しかし1896年、別の諜報文書が発見され、新しく諜報部長に就任したジョルジュ・ピカール(英語版)はドレフュスの無罪を確信し、別の将校であるフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジが真犯人であると突き止めた。しかしピカールはチュニジアへと左遷され、後任に就いたユベール・アンリ(フランス語版)はドレフュスの有罪を示す偽書を捏造する。1898年1月にはエステルアジは軍法会議で無罪を言い渡され、そのまま渡英し、生涯を過ごす。作家のゾラがクレマンソーが発効している新聞「黎明」で政府や軍への批判とドレフュスの再審を求める「私は弾劾する」を発表し、フランス世論はドレフュス派と反ドレフュス派に二分され、激しい議論が展開された。その後、軍幹部を名指しで批判していたゾラは名誉毀損で有罪判決を受けたことから、ベルギーを経由してイギリスに逃れた。8月にはアンリ偽書が暴露され、半月後にアンリは獄中で自殺をする。1899年、ドレフュス派であった急進派や社会主義者らによる左翼連合を基盤とするワルデック・ルソー内閣が誕生したことを受け、ドレフュスの再審が行われた。この再審によって軍部による証拠隠滅や偽証が明らかになったにも関わらず、再び厳刑ではあるものの有罪判決となったが、ルベー大統領によってただちに恩赦がなされ、世論はようやく沈静化した。一方でそれまで与党であった穏健共和派は反ドレフュスの立場であったことから権威は失墜し、以降、急進共和派による政権が樹立された。
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