ブーランジェ事件とドレフュス事件とは? わかりやすく解説

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ブーランジェ事件とドレフュス事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)

フランスの歴史」の記事における「ブーランジェ事件とドレフュス事件」の解説

詳細は「ブーランジェ将軍事件」、「ドレフュス事件」、および「パナマ事件」を参照 1880年代後半から1890年代にかけて、ブーランジェ事件とドレフュス事件といった第三共和政にとって、5月16日事件に次ぐ大きな政治的危機陥る1886年陸軍大臣就任した軍人ジョルジュ・ブーランジェは、軍隊共和主義化・民営化図り、また炭鉱でのストライキ参加者に対して共感示したり、ドイツとの国境紛争に対して強硬姿勢を貫くなどは国内の対独復讐主義再燃させ、国民からの人気集めたこうした人気危険視した政府は、彼を地方へと左遷させるが、こうした対応がかえって国民反感呼んだ1888年にはブーランジェ各地補欠選挙立候補し当選して辞退するというやり方繰り返したこうした運動1889年1月パリ補欠選挙共和派統一候補大差下したことで最高潮となり、興奮した群衆ブーランジェによるクーデター待望したが、あくまで合法的な政権奪取こだわっていたことから、クーデター号令をかけることを躊躇いついには愛人ボヌマン夫人元へ帰ってしまった。このクーデター延期彼の人気を大きく失墜させ、運動沈静化した。政府はただちにブーランジェ国家安寧対する罪で起訴するが、ブーランジェベルギー亡命し1891年ピストル自殺遂げたブーランジェ事件並行して進行していた政治的危機パナマ事件挙げられるパナマ運河事件スエズ運河建設事業指導したフェルディナン・ド・レセップスによるパナマ運河建設事業当初予想反して困難を極め経営難に陥っていた。そうした背景から1888年パナマ会社フランス各紙に金を撒き好意的な事業報告を出させ、さらに議員買収し宝くじ付き社債発行必要な上下両院承認取り付けた。しかしブーランジェ運動ピーク去ったばかりの1889年2月パナマ会社破産宣告を受け、総額14フラン損失計上し85万人の小株主打撃与えた歴代内閣はこの事件隠し続け共和派議員受け取った賄賂を、ブーランジェ派の弾圧のための資金とした。こうした隠蔽1892年ブーランジェ派の運動家によって暴露され当時内閣であったエミール・ルベー(英語版内閣崩壊しクレマンソーといった急進派政治家政界追われた。 1889年ドイツビスマルク失脚し独露再保障条約更新停止しヴィルヘルム2世による対外政策は独露関係を悪化させていた。そうした背景から、フランス長年封じ込めていたビスマルク体制崩壊しフランスロシア接近して1894年には露仏同盟結ばれたこうした緊迫した国際情勢の中で、ドイツ大使館付武官マクシミリアン・フォン・シュヴァルツコッペン(フランス語版)の指揮のもと、フランスへ諜報活動行なっていた。これらはフランス陸軍砲兵部隊に関する諜報文書発見されフランス将校団中にスパイ一人活動していることが発覚した新聞社スパイユダヤ人とを結びつけ、反ユダヤ主義煽ったこうした煽りを受け、砲兵将校でたまたまユダヤ人であったアルフレド・ドレフュス軍事機密渡したとして、確固たる証拠もないまま有罪判決を受け、軍籍剥奪した上で南米ギニア監獄島への流刑処分となった。しかし1896年別の諜報文書発見され新しく諜報部長に就任したジョルジュ・ピカール(英語版)はドレフュス無罪確信し別の将校であるフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ真犯人であると突き止めた。しかしピカールチュニジアへと左遷され後任就いたユベール・アンリ(フランス語版)はドレフュス有罪を示す偽書捏造する1898年1月にはエステルアジは軍法会議無罪言い渡されそのまま渡英し、生涯を過ごす。作家ゾラクレマンソー発効している新聞「黎明」政府や軍への批判ドレフュス再審求める「私は弾劾する」を発表しフランス世論ドレフュス派と反ドレフュス派に二分され、激し議論展開された。その後、軍幹部名指し批判していたゾラ名誉毀損有罪判決受けたことから、ベルギー経由してイギリス逃れた8月にはアンリ偽書暴露され半月後にアンリ獄中自殺をする。1899年ドレフュスであった急進派社会主義者らによる左翼連合基盤とするワルデック・ルソー内閣誕生したことを受け、ドレフュス再審が行われた。この再審によって軍部による証拠隠滅偽証明らかになったにも関わらず、再び厳刑ではあるものの有罪判決となったが、ルベー大統領によってただちに恩赦がなされ、世論はようやく沈静化した。一方でそれまで与党であった穏健共和派は反ドレフュス立場であったことから権威失墜し以降急進共和派による政権樹立された。

※この「ブーランジェ事件とドレフュス事件」の解説は、「フランスの歴史」の解説の一部です。
「ブーランジェ事件とドレフュス事件」を含む「フランスの歴史」の記事については、「フランスの歴史」の概要を参照ください。

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