トパーズ戦争移住センター
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トパーズ戦争移住センター(Topaz War Relocation Center、別名Central Utah Relocation Center(Topaz)、Abraham Relocation Center[3])は、第二次世界大戦時に日系アメリカ人が抑留された収容施設。日系人の間では「突発」という表記が当てられる事もあった。
- ^ a b National Park Service (23 January 2007). "National Register Information System". National Register of Historic Places. National Park Service. 2020年10月12日閲覧。
- ^ a b “Central Utah Relocation Center(Topaz) Site”. National Historic Landmark summary listing. National Park Service. 2008年6月12日閲覧。
- ^ Farrell, Mary M.; Lord, Florence B.; Lord, Richard W.; Burton, Jeffery F. (2002). Confinement and Ethnicity: An Overview of World War II Japanese American Relocation Sites. University of Washington Press. p. 259. ISBN 0295981563
- ^ Jun 2017, Ryusuke Kawai. “第8回 『カリフォルニア州 ヨコハマ町』”. Descubra a los Nikkei. 2019年1月26日閲覧。
- ^ “日系アメリカ人の文学活動におけるバイリンガリズム”. ritsumei.ac.jp. 2019年1月26日閲覧。
- ^ “Oral history interview with Kay Sekimachi [Stocksdale, 2001 July 26-August 6]” (英語). www.aaa.si.edu. 2019年1月26日閲覧。
- 1 トパーズ戦争移住センターとは
- 2 トパーズ戦争移住センターの概要
- 3 文献
トパーズ強制収容所
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1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃の後、1942年2月19日、ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号により、日系人の強制立ち退き(強制収容)が始まり、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州に住む約12万人の日系人が内陸部の10の収容所に送られた。ドイツ系やイタリア系の住民は強制立ち退きを要求されなかったことから、「(真珠湾攻撃という)戦争の成り行きというより根強い人種偏見から出ていたこと」は明らかであり、「日系アメリカ人は実際、ドイツ系やイタリア系の市民より深く疑われ、過酷な扱いを受けた」。また、強制収容所に送られた日系人の3分の2は市民権を持つ二世、すなわち「アメリカ人」であり、三世を含めると78%が市民権を有していた。さらに、合衆国政府は「強制収容所 (concentration camp)」という言葉は使わなかった。拘禁、拘留、監禁、強制収容、隔離を表わす他の言葉 (internment、incarceration) も使わず、「赴任、異動」の意味もある「移住 (relocation)」という言葉を使って「戦時移住センター (War Relocation Center)」と名付けた。この婉曲的な表現からも、日系人強制収容の意味が不透明である。モリは、1942年にカリフォルニア州サンブルーノのタンフォラン仮収容所に収監された後、トパーズ強制収容所に送られた。強制収容所はユタ州の砂漠の中にあり、寒さが厳しいうえに、たびたび砂嵐に襲われた。医療設備も整っていなかったため、とりわけ高齢の一世にとっては過酷な環境であった。当時学生であった二世作家のヨシコ・ウチダは、後にこの収容所での体験に基づいて自伝的小説『トパーズへの旅』、『荒野に追われた人々』を著したが、刊行されたのはいずれも1970年代であり、1948年の日系人退去補償請求法では考慮されなかった無形の損害、侵害された自由、尊厳などの回復を求めた補償運動が始まった頃のことである。 モリは収容所で新聞『トパーズ・タイムズ』と季刊文芸誌『トレック』に寄稿した。『トレック』には画家ミネ・オオクボが描いたトパーズ収容所の絵が多数掲載され、1946年に『市民13660号 ― 日系女性画家による戦時強制収容所の記録』として発表された。モリは、強制収容所には「語られなければならない8000もの物語があった」と述べている。実際、この間に書かれた収容所体験に基づく小説「ムラタ兄弟」、およびその他の短編や随筆は、『カリフォルニア州ヨコハマ町』を書いた作家モリとは異なるモリを理解する上で重要な作品だが、「ムラタ兄弟」が発表されたのは、これも没後20年の2000年に刊行された作品選集『未完成のメッセージ』においてである。兵役志願によってアメリカ市民としての忠誠を示そうとするヒロと、アメリカ市民としての権利を主張し、兵役を拒否し、刑務所生活を余儀なくされるフランクの対立・葛藤を描いたこの中編小説は、ヒロのように米国への忠誠を示すために第442連隊戦闘団に志願し、戦闘で重傷を負った弟カズオと家族に捧げられている。
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