「大規模邸宅」の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
「中世の寝殿造」の記事における「「大規模邸宅」の変化」の解説
規模毎に寝殿造の変化の様子が異なる。例えば「超大規模邸宅」は例えば藤原道長の土御門殿、藤原頼通の高陽院など二町以上の最上級寝殿造は平安時代末には常住の屋敷としては消滅している。東三条殿(画像030)が有名なのは、摂関家最盛期の屋敷の中で唯一焼け残り、儀式専用の屋敷として利用され、その記録が貴族の日記に多数残されたからである。つまり摂関家には他に大饗などか開催出来る屋敷がなかった。その東三条殿の焼失により摂関家の「超大規模邸宅」が消滅した。 鎌倉時代には院御所や西園寺家、摂関家などは一町規模、郊外ならそれ以上の邸宅を構えていた。しかし南北朝時代の初期、建武3年(1336)の兵火で皇室や宮廷貴族の諸邸の多くが焼失している。南北朝時代の後期には大規模邸宅は勿論、「階隠間、中門、車宿」を具備した程度の邸宅も姿を消し、新造も皆無に近い状態にあった。「超」の付かない方一町級の「大規模邸宅」は、足利将軍の室町殿(画像080)など応仁の乱まではあるが、決してその時代の一般的傾向を反映するものではなくて、足利将軍邸という極めて特異な存在である。そうした大規模邸宅では、形ばかりでも母屋・庇のある寝殿とともに、中門廊や公卿座が寝殿に吸収されずに別棟として独立して最後まで残った。しかし屋敷全体が旧来の寝殿造であった訳ではない。例えば足利義教の将軍邸・室町殿(画像080)は以下の三つのエリアからなる。 寝殿造部分、つまり西四脚門 、随身所、車宿、西中門、西中門北廊、西中門南廊、殿上、公卿座、寝殿などいわば「晴向建物」群で将軍邸の西側エリア。 東側エリアには会所泉殿、南向会所、新会所、観音堂、持仏堂、厩、常御所の「奥向建物」群のグループ。 更に小御所、新小御所、対屋三宇、台所の北向グループ。 室町将軍は武家社会で征夷大将軍であると同時に公家社会では右近衛大将であったり大臣であったりもする。画像080は国立国会図書館蔵「室町殿御亭大饗指図」(永享4年7月25日)から作成したものだが、そこに「大饗指図」とあるのは足利義教が内大臣になったときの任大臣大饗である。つまりここに現れる「晴向建物」群はそうした公家・大臣家としての格式を整えるためのものである。しかしその範囲でも寝殿の北側は公家社会の有職故実には従っていない。奥向や北向グループの内、雑舎や堂を除いた主要な建物、小御所、常御所、そしてそこから分かれた会所は「小御所の平面の変化」で見たように既に「母屋・庇の構造」から完全に離脱している。 そうした将軍邸の「一部が寝殿造」というのも応仁の乱までである。応仁の乱の最中、文明8年(1476)に室町殿は焼失する。応仁の乱以降の足利義政の東山殿では常御所や複数の会所の建設が優先されて常御所が主殿と呼ばれ、寝殿の建設は義政が東山殿に移った7年後に開始はしたが断念された。以降室町将軍邸に寝殿は作られていない。
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