和弓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 06:09 UTC 版)
由来
和弓の全長は江戸期より七尺三寸(約221センチメートル)が標準と定められているが、これは世界の弓の中でも最長の部類である。和弓がなぜこのように長大になり、また中間より下を把持するという独特の握り方をするようになったかは未だはっきりと解っていない。推察されている理由を以下に挙げる。
- 日本で手に入れやすい素材が植物性のものであったこと。木や竹はしならせ過ぎるとやがて破綻を生じ、またしなり癖も付くが、弓の全長を長く取ることで全体的なひずみ量を少なくし、より多くの矢数に耐えられるようにした。その結果耐久性と威力を求めて、現在の形になった。
- 上記理由に合わせ、古来の弓は木から削り出した単一素材であり、根元が下に、梢側が上に来るように弓を持つが、木素材の弾性率が梢側より根元の方が高いため、上下の撓りのバランスを取るために中間より下側を握るようになった。
- 戦時、歩兵は身を屈めながら、身分ある武士は騎乗で弓を引くため、下が長いと地面、あるいは馬に弓が当るため邪魔になる。そのため真ん中より下部を握るようになった。
- 日本では古来弓は神器として考えられており、畏敬の念や信仰により長大になっていったというものである。現在でも弓を使った神事は多く見られる。
- 弥生時代より長弓の伝統があったが、古墳時代に現在の和弓のような長大な弓が現れた。3メートルを超す弓も存在し、正倉院には2.4メートルに及ぶ弓も保存されている。
- また、鎌倉時代から江戸期までは七尺五寸が標準であった。
- 日本には古より大弓と呼ばれる2メートルを超す長尺の弓から半弓に分類される短い弓等、長さ、武芸用途、遊戯用途、植物素材、動物素材、様々な弓があった。その中で最も威力があり武士に好まれたのが大弓で、大弓を用いた射術も発展し現在に至り、弓道として残った。つまり時代毎の用途や好みによる選択的な歴史淘汰の結果である。
- アジア太平洋地域の長大な弓の分布はオーストロネシア語族の拡散域と重なっていることなどから、文化的な影響や対高句麗・新羅戦に備え大型の弓に統一した説もある[8]。なお、西日本の和人が長弓なのに対し、古代東北の蝦夷は騎乗時に使いやすい短弓を利用していた[8]。
- 一般的ではないが鉄製の弓も存在している[9]。『百合若大臣』の主人公は八尺六寸の鉄弓を用いて活躍する。
歴史
- 原始の弓[縄文時代初期:紀元前1万3000年頃〜 ]
- 弓は人類史上、石鏃が発掘されていることから石器時代から存在することがわかっているが、日本では縄文時代からである。当時の弓は主に狩猟用途で使われており、狩猟生活するには欠かせない生活道具であった。弓は木(イヌガヤ)から削り出した単一素材で、補強のために樹皮や麻を巻き締め漆で固めた弓もしばしば見られる(考古学的にはこの時代の弓も「丸木弓」と呼称している)。漆塗りの弓には装飾が施されたものもあり、祭祀目的で使われていた形跡も見られる。ただしこの頃にはまだ長くても160センチメートル程度のものが多く、また材質が木材であることから完全な形で発掘されることは極めて難しく、当時の弓の全体像はわかっていない。
- 丸木弓(まるきゆみ)[弥生時代:紀元前5世紀頃〜 ]
- 弥生時代に入ると、殺傷目的の対人武器としても用いられるようになり、戦闘弓は、より高い威力、飛距離を求めた改良が行われた。結果として全長2m以上の長尺となり、加えて、上長下短、下部寄りを把持するようになった。遺跡から発掘される土器に描かれている絵からも当時の弓の形が見て取れる。また、弦を掛ける弓の両端が弦を縛り付ける形から現代に通じるシンプルな凸型形状になり、弦の掛け外しが容易になっている。
- 魏志倭人伝の倭人に関する記述に「兵器は……木弓を使用し、その木弓は下部が短く、上部が長くなっている。」という一節がある。
兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐡鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同 — 『三國志』魏書東夷傳倭人条
- 古墳時代
- 丸木弓はより長大となり、ほぼ現在の長さとなった(正倉院御物)。原始和弓と呼ばれる。
- その後も平安時代までは単一素材の丸木弓のままだが、時代が下るに従い形状が現代に通じる和弓の形に次第に近づいていった。また、枕詞として和歌にも詠まれた「梓弓」のように、神事や儀式の鳴弦(弓の弦を打ち鳴らして穢れを祓うまじない。ゆみづるうち、鳴弦の儀)に弓が用いられるなど、単なる武器を超える精神的な意味を持つ道具となる。
- 伏竹弓(ふせたけゆみ)[平安中期:10世紀頃〜 ]
- 木と竹を張り合わせた合成弓が初めて登場する。以降、和弓と呼ばれる。より高い威力を求めて木を主材にした弓の外側に竹を張り合わせたシンプルな型である。また「武士」の誕生もこの頃で、騎乗で和弓を使う高度な騎射戦闘術を磨き、家芸とした(弓馬)。
- 三枚打弓(さんまいうちゆみ)[平安後期:12世紀頃〜 ]
- 木芯の前後に竹を張り合わせたもの。丸木、伏竹からくる発展的な作り。源平時代前後辺りか。
- 四方竹弓(しほうちくゆみ)[室町中期:15世紀 - 16世紀頃〜 ]
- 木芯に四方を竹で囲んだ作り。時代的には戦国時代に入る前後あたりか。
- 弓胎弓(ひごゆみ)[戦国時代後期 ]
- これまで弓胎弓の完成を江戸初期とする説が有力だったが、小田原城跡から15〜16世紀の漆塗り弓胎弓が出土したことから、戦国時代後期までに完成していたことが判明した。(詳細は構造欄参照)。江戸初期は通し矢競技が盛んに行われた。藩の威信を掛けた競技のため、弓、矢、弽(ゆがけ)の改良、開発が盛んに行われた。当時培われた技術が現代の弓具制作の礎となっていると言っても過言ではない。現在使われている弽(ゆがけ)の原型の発祥もこの頃のことかと思われる。
- グラスファイバー弓・カーボンファイバー弓[昭和42年〜 ]
- 1967年(昭和42年)7月、オランダ・アメルスフォートで開催された第24回アーチェリー世界選手権大会に、全日本弓道連盟から唯一和弓選手として派遣された宮田純治選手が、アーチェリー選手と最長90mの距離を飛ばし的中を競う為、内竹・外竹の代わりにアメリカから輸入した反発力の強いグラスファイバーFRP(Fiber Reinforced Plastic)を使用した和弓を開発し、同大会に使用したのが起源(月刊「秘伝」2012年11月号 参照 [1])。同氏が、1972年(昭和47年)にミヤタ総業株式会社を設立し、グラスファイバー弓の製造販売を開始。のちにカーボンファイバーFRPを使用した弓も開発、販売する。「学校弓道-的中率と効果的な練習方法-」(1984年5月刊行、著者:高垣俊廣、発行:株式会社タイムス)によると、「<グラスファイバー弓>現在(1984年)では学生弓道界の主流をなしているグラスファイバー弓について言及しておきたいと思います。日本弓は単材弓としての丸木弓から、平安時代になって複合弓が考案され、伏竹弓ができ、三枚打弓(平安時代末期)、四方竹弓(室町時代)へと進歩し、現在も使用されている弓胎(ひご)弓-発生時代不明-がつくられるようになりました。このような一連の日本弓発展過程において、グラスファイバー弓の出現は、時代の変遷に伴う国際的交流と科学的社会が生んだ新製品と言えます。現在のグラスファイバー弓は日本弓の形状をそのまま保存し、その材質にグラスファイバー(Fiberglass Reinforced Plastics・・・以下FRPと言う)を使用したものです。現在(1984年時点)、社会人高段者においては弓胎弓が主流として使用されていますが、学生弓道界においてはFRP弓が多く使用されています。FRP弓の創始者は宮田純治氏です。<時代背景>宮田氏の言によれば、FRP弓の必要性を強く感じた理由と、当時の社会的背景を次のように語っています。昭和39年(1964年)東京オリンピックに先立つ数年前、東京オリンピックに弓術種目が入るという話題が持ち上がった時、日本における弓の代表団体である全日本弓道連盟が、国際競技への参加権を獲得していたため、全日本弓道連盟は挙げて国際競技に対する研究に取り組むことになりました。(当時、アーチェリー連盟は日本体育協会に加盟が許可されておらず、現在に比べれば組織力・技術力においてまだ発展途上にありました。)東京(後楽園球場)において、和洋混合の国際競技大会が行われ、宮田氏は選手として出場し、日本伝統の和弓を使用して70メートル・90メートル競技において3位に入賞しました(1・2位は洋弓)。当時、全日本弓道連盟は弓具の改良を研究し、短い竹弓の試作も試みましたが約一年後、方針を転換し、洋弓との競射は行わず、日本弓道独自の道を歩む方向に転換しましたので、すべての研究はストップすることになりました。もし研究が続行され、進歩していれば、FRP弓も誕生していたと考えられます。宮田氏はその後もFRP弓と日本弓との取り組みをあきらめず、洋弓に見られぬ洗練された美しさと優秀性、理念の高さなどに引き込まれていき、国際的技術として通用するよう、射術と弓具について更に深く研究を続けていきました。洋弓の国際ルールでは4種目で、男子は(30メートル、50メートル、70メートル、90メートル)各36射、計144射が1ラウンドで4日間、2ラウンドの協議を行います。屋外で多少の風雨では競技は実施されるため、日本弓製の弓・矢と革の弽・麻弦では、耐候性の点において、洋弓の化学的製品に比べ、格段の劣勢は明白でありました。そこで洋弓関係者からFRPを購入し、7尺の和弓に張りつけて引くといった工夫と実験を重ね、矢も米国イーストン社のジュラルミンのシャフトを矢として使用するなどの研究を続けていきました。国際競技の参加権を持っている全日弓連に対しては、洋弓界から参加の働きかけがあり、再び国際競技への参加が計画され、昭和42年7月、オランダで開催された世界選手権戦に洋弓選手5名とともに、和弓代表者として宮田氏がただ一人日本弓で参加しました。弓具の差は歴然とし、結果は惨敗に終わりました。その後間もなく、国際競技への参加権は、全日本アーチェリー連盟に移譲されましたが、宮田氏の日本弓改良に対する情熱は一層強くなり、新しい素材であるFRPを使用して試行錯誤しつつ、5年の歳月を経過した後、昭和47年(1972年)9月、会社を設立し、FRP弓の製造販売を開始するところとなりました。その後、次々とFRP弓のメーカーが出るようになり、学校弓道においては不可欠の弓具となっています。」と説明されている。その他現在、グラスファイバー弓の製作メーカー・ブランドとして、タカハシ弓具(肥後蘇山)、小山弓具(直心)、大洋弓具製作所(粋)等が存在する。
竹弓の産地
かつて竹弓(鰾弓・ニベ弓)は全国で生産されていたが化学素材製品の弓が普及するにつれ生産数は減っている。成り(弓の反り姿)によって京成・江戸成を標準として以下のように大別される[10][11]。
- 京成(京都)・江戸成(江戸):上成りと下成りを中心として湾曲している。
- 加州成(加賀):上成りが京成よりも上部にある[12]。
- 尾州成(尾張):上成りが下がり、小反が少なく姫反が強いが額木と弦は離れている。
- 紀州成(紀伊):成りが下がり、小反が少ない。
- 薩摩成(薩摩):上成り・下成りが大きく湾曲していて胴が強い。
- 主な弓師(屋号)
- 柴田勘十郎:京弓
- 小山雅司:江戸弓
- 桑畑正清:都城大弓、伝統工芸士
- 小倉紫峯:都城大弓、伝統工芸士
- 楠見蔵吉:都城大弓、伝統工芸士
- 南﨑寿宝:都城大弓、伝統工芸士
- 横山黎明:都城大弓、伝統工芸士
- 菊永泰道:都城大弓、伝統工芸士
注釈
出典
- ^ 神話としての弓と禅 山田 奨治、日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要19号、1999-06-30
- ^ a b 弓道と科学(和弓の特性について )
- ^ 森 2005, p. 67.
- ^ ナショナルジオグラフィックチャンネル「武士道と弓矢」(原題:Samurai Bow)。同チャンネルの公式ホームページに番組内容の紹介を掲載。
- ^ 2013年現在。“研究者総覧 森俊男”. 筑波大学. 2013年9月19日閲覧。
- ^ 森 2005, p. 69.
- ^ 森 2005, p. 68.
- ^ a b 岡本光彦 2015
- ^ “鉄弓 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2022年1月28日閲覧。
- ^ 弓成りについて
- ^ 弓道大学
- ^ 加賀藩と弓道
- ^ 日本の弓矢(和弓)のコト
- ^ 宮崎県の伝統的工芸品<武道具・伝統の技>
- ^ 国の伝統的工芸品「都城大弓」
- ^ 都城弓のルーツ
- >> 「和弓」を含む用語の索引
- 和弓のページへのリンク