ポール・セザンヌ 作品

ポール・セザンヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 13:06 UTC 版)

作品

カタログ

セザンヌの作品は、油絵900点余り、水彩画350点余り、デッサン350点余りである[115]

1936年、美術史家のリオネロ・ヴェントーリ英語版により、初めて本格的なカタログ・レゾネが出版された[116]

ジョン・リウォルド英語版は、ヴェントーリのカタログ・レゾネの年代確定に疑問を呈し、個人的な調査に加え、研究者を中心とする小委員会を組織して、カタログ・レゾネの編纂作業を進めた。その際、様式分析による年代確定を非科学的であるとして排し、外的な資料やモデルの発言を手がかりとするとの方針を貫いた。そして、まず、1973年にシャピュイ編による素描のカタログ・レゾネ、1983年にリウォルド編による水彩画のカタログ・レゾネが刊行された。1994年、リウォルド自身は死去するが、1996年、その遺志に基づいて油彩画のカタログ・レゾネが刊行され、今日のセザンヌ研究の基礎となっている[116][117]

作風・技法

リオネロ・ヴェントーリは、セザンヌの油彩画の発展段階を、(1)アカデミズムロマン主義の時期(1858年-71年)、(2)印象主義の時期(1872年-77年)、(3)構成主義の時期(1878年-87年)、(4)総合の時期(1888年-1906年)に分けて考察している[118]。もっとも、印象主義との出会いの時期も必ずしも印象主義的な絵を描いたとはいえず、構成と総合は年代に依存するものではないため、初期のロマン主義的作品を除く後期作品については、年代によって区分することは恣意性を含むとの指摘もされている[119]

初期のロマン主義的作品

『ドラクロワ礼賛図』1890-94年。油彩、キャンバス。グラネ美術館

セザンヌは、1860年代から70年代を中心に、現実のモデルに基づかず、空想で描く「構想画」を多く描いている。そのテーマは、暴力、虐殺、性的放縦、誘惑、女性の聖性、美とエロスといったものである[108]。初期の絵画は、内面の情念を露骨に表出したものが多く、絵具を力強く盛り上げて描いている[120]。この時期のセザンヌに最も大きな影響を与えたのは、ウジェーヌ・ドラクロワギュスターヴ・クールベであった[121]。また、マネの『草上の昼食』や『オランピア』に着想を得た挑発的な作品を複数制作している[108]

セザンヌが絶賛したヴェロネーゼの『カナの婚礼』(左)[122] と酷評したアングルの『[123]

印象派と出会ってからは、こうした露骨なロマン主義は影を潜めたように見えるが、ガスケは、セザンヌの生涯は震えるような感受性と理論的な理性との戦いであって、自ら忌み嫌うロマン主義が芽を出し続け、後年の水浴図などにまで表れていると指摘している[124]

セザンヌ自身、晩年においても、フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサンを尊ぶと同時に、ドラクロワへの敬意を失わず、『ドラクロワ礼賛図』を描いている[125]。そのほか、ティツィアーノティントレットヴェロネーゼといったヴェネツィア派の画家や、ルーベンスベラスケスの生命感あふれる絵画を愛好した。他方で、新古典主義ダヴィッドアングルや、ボローニャ派に対しては、血の通わない技法(メチエ)に陥っているとして排斥した[126]

セザンヌの初期構想画のオリジナリティに初めて注目したのは、メイヤー・シャピロ英語版であった。その後、1988年から1989年にかけてオルセー美術館などで、セザンヌの初期作品を集めた大規模な展覧会が開かれたが、初期作品をセザンヌの恥部であるとして評価しない批評家も多かった[108][127]

印象主義とその克服

『メダンの館』1879-81年。油彩、キャンバス、59.1 x 72.4 cm。バレル・コレクション英語版グラスゴー)。

パリで、ピサロから、戸外で自然を見て描くという印象主義の発想を教えられ、田園の風景画を描き始める[128]。彼は、印象派を通して、色彩を解放することを知った[105]。しかし、モネやアルフレッド・シスレーが、色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対し、セザンヌは、色彩による堅固な造形を目指している点に特徴がある[129]第1回印象派展に出品した『首吊りの家』においては、明るい色彩を用いながら、一瞬の映像ではなく、建物の力強い実在感や、空間を構成しようとする意図が表れている[130]

ゾラがセーヌ川沿いに購入した家を描いた『メダンの館』でも、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、短い筆致(ストローク)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されている[129]。このように、色調を微妙に変えながら、斜めに平行して筆致を並置することで秩序を生み出そうとする技法は、シオドア・レフ英語版によって構築的筆致と名付けられた[131][132][注釈 7]。最初はロマン主義的人物群像に用いられていたが、1879年-80年頃から、風景画に用いられるようになった[131]

また、形態の喪失という印象派の抱える問題点を克服するために、輪郭線の復活によって対処しようとしたルノワールとは異なり、セザンヌは、人物、静物、風景を問わず、物の形を、面取りをしたように、面の集合として捉えた上で、キャンバス上に小さい色面を貼り合わせたように乗せ、立体感を強調した[133]。1895年以降の作品には、構築的筆致よりも広い色面が、撒き散らされたように並べられている[131]。そして、伝統的な明暗法や肉付法が、無彩色により陰影を付けていたのとは異なり、ストローク(筆致)で分割された有彩色を段階的に変化させるモデュラシオン転調)という技法により、明暗や量感を表現した[134]。その代わり、肌の質感や輝きは、切り捨てられている[135]。彼の「自然を円筒、球、円錐によって扱う」というフレーズは、幾何学的形態への還元を勧めるものと解釈され、後のキュビスムに理論的基盤を与えた[136]。もっとも、セザンヌの真の意図については様々な解釈があり、自然界の物が眼との距離によって様々な色彩を見せるため、モデュラシオンを行う必要があるという意味だとも言われる[137]

『果物籠のある静物』1888-90年、64 × 80 cm。オルセー美術館

1880年代に制作した静物画では、緊張感をはらんだ歪み(デフォルマシオン)が現れる[138]。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し、果物籠が横から見たように描かれているなど、複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオンが生じている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。こうした独特の造形は、同時代の人々からは激しく非難されたが、これも後のキュビスムによって評価されることになる[139]

晩年のセザンヌは「自然にならって絵を描くことは、対象を模写することではない、いくつかの感覚(サンサシオン)を実現(レアリゼ)させることだ」と述べていた[140]。このように、「感覚の実現(レアリザシオン)」はセザンヌのスローガンとなるが、そこでいう感覚には、自然が網膜にもたらす色彩の刺激という意味と、自然から得た感覚を統御して秩序を構築する芸術的感覚という意味の二つがあった[141]。すなわち、モネに代表される印象派が、眼を通して受け入れた感覚世界を色彩に分解してキャンバスに写し取ることを追求したのに対し、セザンヌにとっては、見ることとは、自己の内部にある知的秩序に基づく認識作用であり、しかも、認識の対象は、赤や青の斑点ではなく、りんごや山といった実在であった[142]。「絵画には、二つのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、お互いに助け合わなければならない。」という言葉にも、彼の考え方が表れている[143][144]

主題とモチーフ

人物画

セザンヌ『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』1899年、プティ・パレ美術館
ルノワールによるヴォラールの肖像。1908年。

セザンヌは、作品制作に時間をかけたことで知られる。画商アンブロワーズ・ヴォラールは、セザンヌに自らの肖像画を依頼したが、毎回3時間半も、不安定な台の上に置かれた椅子に座ってポーズをするという苦行を強いられ、ある時、居眠りをすると、「りんごと同じようにしていなければならない。りんごが動くか。」と怒鳴られたという逸話を回想録で述べている。115回にわたりポーズを続けた時、セザンヌは、描きかけの肖像画について「ワイシャツの前の部分はそう悪くない」と言ったという。作品は、ルノワールが同じヴォラールを描いた暖かみのある肖像画とは異なり、余計なものを排した構築性の強いものとなっている[145][146]。もっとも、同様に肖像画のモデルとなったガスケによれば、ポーズをとったのは5、6回で、セザンヌは、モデルがいる間はその観察に時間を費やし、モデルが帰った後に筆を動かして作品を完成させたという[147]

妻オルタンスも、従順で辛抱強いモデルとして、多数の肖像画に登場している[148]。そのほか、ゾラなどの友人、家政婦ブレモン夫人、庭師ヴァリエなど身近な人物をモデルとしている。生涯パトロンを持たなかったため、富裕な人物から注文を受けての肖像画はない[149]

セザンヌにとっての人物画は、ルノワールのようにモデルの生命感が問題になるのではなく、空間におけるヴォリュームを有する人体が問題であり、その点で、静物画と同じ意味を有したといえる[150]

自画像

水浴図

セザンヌは、水浴を主題に多くの連作を制作している。最初は、男女混合で、男性水浴者が森の中で女性水浴者を覗き見するものなど、男女の関わり合いを描くものもあったが、その後、男女は別々に描かれるようになった。男性水浴図は、少年時代にアルク川英語版で水遊びを楽しんだ原体験が投影されており、攻撃性や闘争性が表れている。一方、女性水浴図は、ユートピアでくつろいでいる姿となっている[108]

マネ、ルノワール、モネ、ドガ、トゥールーズ=ロートレックなどが、近代化の進むパリの情景を好んで描いたのに対し、セザンヌは、そうした近代的情景を好まず、自然を追い求めた。セザンヌの水浴図には、そうしたユートピアへの指向が表れている[151]

1905年1月にエクスを訪問したR.P.リヴィエールとJ.F.シュネルブに対し、セザンヌは、描きかけの大水浴図(バーンズ・コレクション蔵のもの)について、「1894年から制作しています。クールベのように徹底した厚塗りで描きたいものだ。」と述べている[152]。1904年のベルナールの訪問時には、セザンヌは、ヌードを描くのに、田舎ではモデルを見つけるのが難しいといった理由から、アカデミー・シュイス時代のデッサンを見ながら制作していることを打ち明けている[153]

マティスは、1899年にヴォラール画廊で『3人の浴女』を購入し、長く制作の手本とし、『生きる喜び』(1905-06年)など多くの裸婦を描いた[108]

静物画

セザンヌは、初期から、クールベ、マネ、ジャン・シメオン・シャルダンなどを手本に、静物画に熱心に取り組んだ。中でも、ゾラとの少年時代の想い出にも登場するりんごを好んで描いた[154]。もっとも、ヴォラールによれば、制作に時間をかける余り、りんごが腐ってしまい、下絵だけで終わったこともあったという[155]

晩年には、骸骨を取り入れたヴァニタスも制作している[156]。ベルナールは、1904年のエクス訪問中、セザンヌが毎朝6時から10時半までアトリエで三つの頭蓋骨を描き続け、「まだ足りないのは実現(レアリザシオン)だ」と述べていたのを報告している[157]

ナビ派の画家ポール・セリュジエは、セザンヌの静物画について、「見る者に皮をむいて食べたいと思わせるのではなく、ただ見るだけで美しく模写したい気持ちにさせる。」と評している[158]

サント=ヴィクトワール山

エクス=アン=プロヴァンスの町から見たサント=ヴィクトワール山

サント=ヴィクトワール山は、エクスの郊外にある標高1000メートルほどの山である。セザンヌは、1870年に描いた風景画の背景にこの山を取り入れたことがあるが、1880年代半ば以降、この山を重要なモティーフとする連作に取り組むようになった。油絵、水彩、素描で数十点が描かれている[159]

手紙の訳書

  • 『セザンヌの手紙』ジョン・リウォルド編(池上忠治訳、筑摩書房・筑摩叢書 1967年、新版1985年/美術公論社 1982年)
  • 『セザンヌ=ゾラ往復書簡 1858-1887』アンリ・ミトラン校訂・解説(吉田典子・高橋愛訳、法政大学出版局・叢書ウニベルシタス、2019年)

注釈

  1. ^ 近年(特に1993年以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。浅野 (2000: 68) は、最近の調査で死亡時刻が10月23日午前7時であったことが判明したと指摘している。また、ルイス (2005: 339) は、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。
  2. ^ リウォルド (2004: 89) に、セザンヌは落選展のカタログから漏れているが出品したと記載されていることから、これに従う文献もあるが、出品したという根拠や何を出品したかは示されておらず、近年はセザンヌは落選展を見ただけとする文献が多い。新関 (2000: 37, 330)
  3. ^ この年が、セザンヌがサロンに応募したことが資料上推定できる最初の年である。新関 (2000: 148)
  4. ^ リウォルド (2004: 269)は、セザンヌの父が、第1回展で赤字の分担金184.50フランを払わされたため、第2回展への参加に反対したことも挙げている。
  5. ^ モネは、第4回印象派展に出品を断ったが、ギュスターヴ・カイユボットが所蔵者から借り集めて取り繕った。新関 (2000: 107-08)
  6. ^ 『L・A氏の肖像』という作品は、セザンヌの父ルイ=オーギュストの肖像であると推定される。経済的に支え続けてくれた父に入選の名誉を捧げたかったとの推測もされている。新関 (2000: 157, 165-77)
  7. ^ レフの名付けたconstructive strokeを構築的筆触と訳す例もあるが、筆触(タッチ)ではなくストロークである。

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  157. ^ ドラン編(ベルナール)(1995: 111-12)
  158. ^ ドラン編(モーリス・ドニ)(1995: 301
  159. ^ 永井 (2012: 68)






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