ペルシア人 ペルシア人の概要

ペルシア人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 00:31 UTC 版)

古代ペルシアの貴族と兵士の服装

一般的定義

ペルシア語の話者の分布図
アケメネス朝ペルシアの最大版図
紀元前550年 - 紀元前330年
アケメネス朝ペルシアの初代国王・キュロス2世

「ペルシア人」の民族名称が指し示す範囲は時代、地域、文脈などによってさまざまに伸縮する。

もっとも広義には、歴史的なイラン地域および中央アジア方面に住み、主にペルシア語を語る人々のことを漠然と指す。狭義にはイラン・イスラーム共和国籍を有する人(イラン人)のうち、もっぱら定住生活をとり、ペルシア語を主に語る集団を指す民族名称ファールスィー(後述)の訳語である。

なお、「ペルシア人」を意味する他称をもつ人々として、アフガニスタンのファールスィーワーンやインドゾロアスター教徒であるパルスィーが存在しているが、欧米の諸言語や日本語では彼らを「ペルシア人」とは呼ばない。

広義の「ペルシア人」

広義の「ペルシア人」は、地理的・文化的な概念としての「ペルシア」と結び付けられた民族名称であるということができる。

しかしながら、広義の「ペルシア人」の前提である地域としての「ペルシア」概念は、その概念が用いられる時代において、あるいは西欧語やロシア語、インド方面諸言語、テュルク語、ペルシア語などの言語によって、その意味するところが大いに異なることに注意しなければならない。これについては本項では詳述されないので、より全体的な視野を得るためにはペルシアを参照されたい。

この広義の用法は、日本では「ペルシア」概念と結び付けられて浸透しており、広くみられる。

したがって、「ペルシア人」は主に歴史的文脈において多く用いられるが、当の「ペルシア人」の居住する地域である中東中央アジア地域を主たる研究対象とする歴史学の研究においては、「ペルシア」に付随するオリエンタリズム的イメージが嫌われ、広義の意味での「ペルシア人」はあまり用いられない。これにかわり、歴史研究では、当時の人びとの自称・他称を直接用いることが多い(詳しくは後述)。

狭義の「ペルシア人」

もっとも狭義のペルシア人は、現代のイランにおける民族集団ファールスィーの訳語であり、またその直接の先祖であるとみなしうる現在のイランの領域で活動したペルシア語話者の定住民たちを指して用いられる。

ファールスィーは、ペルシア語で「ファールスの人」を意味するが、ファールスは古代イランにおけるパールサのことであり、「ペルシア」の語源となった地名である。したがって、現代ペルシア語のファールスィーと日本語を含む外国語の「ペルシア人」は語源からみてほぼ同一の語である。

イランにおけるファールスィーすなわち「ペルシア人」は、1935年に同国が国名をイランと呼ぶことを正式に決定し、その国民はイラン人と呼ばれるようになったとき、これ以降、ペルシア語を語る国内の最大多数派の集団を呼ぶ民族名称として定着した用語である。

定義次第で幅があるが、現在のイランの人口のうち約50%〜70%が「ペルシア人」である。そもそも民族識別自体が、言語をもとにしているので、方言的な言語をどの程度までペルシア語とするかによって幅は異なる。

現代イランにおける「ペルシア人」の民族的特徴を最大公約数的にまとめれば、現代ペルシア語を母語とし、都市および農村で定住生活を送り、大多数がシーア派十二イマーム派を信仰している、という点である。

「ペルシア人」の用例

古典古代の諸言語

「ペルシア人」のもととなった地名「ペルシア」は、ハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)史やサーサーン朝の発祥の地となった現在のイラン、ファールス州周辺地域(ファールス地方)の古称「パールサ」に由来する。日本語に入った「ペルシア」は、これがギリシア語からさらにラテン訳されて、西ヨーロッパの諸言語を経由して伝わったものである。

サーサーン朝時代には漢文史料でも「波斯」という語が使われていたように、この王朝の支配領域を指す他称として用いられていたのであり、この時代のギリシャローマの人々にとっては、「ペルシア人」はペルシアの国の人々を漠然と指した。

中世ギリシア語

ポロをする人々(ペルシア細密画、1524年頃)

中世の東ローマ帝国で、ギリシャ語で「ペルシア人」という語を用いるときは、しばしば小アジア(アナトリア)から東方に住む民族を指して用いられた。このためセルジューク朝ルーム・セルジューク朝オスマン朝トルコ系民族も「ペルシア人」に含まれ、「ペルシア人」は必ずしもペルシア語を話す民族を指していない。

これは、東ローマの知識人が古代ギリシャの古典文化を尊ぶ傾向があり、周辺の異民族に対しては、古代ギリシャ時代にその地にいた民族の名前をあえて使用することを好んだためである。他にも、彼らはルーシの人々を「スキタイ人」と呼んでいたりすることもある。

アラビア語・近世ペルシア語

サーサーン朝を滅ぼしてその旧領域のほとんどを支配するにいたったウマイヤ朝では、支配下に入った旧サーサーン朝の人々をアラビア語アジャミー(عجمی ('ajamī)、「理解することのできない言葉を話す者」を意味する)と呼んだ。

アラブ人から見て「アジャミー」と呼ばれる人々は次第にイスラム教に改宗し、アッバース朝の後期にはサーマーン朝ブワイフ朝などのイスラム王朝を建国した。こうした諸王朝のもとではアラビア語の文字と語彙を取り入れた「近世ペルシア語」の文学が発達し、「ペルシア人」による自己意識が高まったとされる。この時代、彼らはアラブや、別の隣人であるテュルクトゥーラーン)に対して自分たちをイラン(イーラーン)の人であるとする自意識を持ち、イラン人(イーラーニー)の自称が形成された。

さらに時代がくだり、「ペルシア人」の居住地に遊牧を主たる生業とするテュルクの人々が入り込んでくるようになると、主に都市に住み、文雅なペルシア語を操り、文筆や商業を生業とするような人々はタジク人(タージーク)と自称することもあった。遊牧民であるテュルクは軍人、定住民であるタージークは文官として王朝に仕え、文語の世界ではテュルクとタージークは対比関係でとらえられた。

サファヴィー朝以降のイラン、シャイバーン朝以降の中央アジアではテュルクと「ペルシア人」の混住が進み、かつては遊牧民であったテュルクが都市に定住して文人になったり、「ペルシア人」が軍人になったりすることもあった。この時期にはサファヴィー朝がシーア派を国教としたのに対してシャイバーン朝以下がスンナ派に留まるなど、イラン世界で東西の二分化が進み、近代初期にはかつての「ペルシア人」はイランではイラン人、中央アジアではサルトと呼ばれるようになっていた。

20世紀にイラン、ソビエト連邦が形成されると、こうして漠然としつつあった「ペルシア人」は母語とする言語を主たる尺度として再び民族として弁別されることになった。彼らは現在、イランにおいてペルシア語でファールスィー(ペルシア人)、中央アジアにおいてタジク語でタジーク(タジク人)と呼ばれている民族となっている。


  1. ^ 読売新聞 2016年 10月5日、水曜日付け


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