高鍋藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 07:40 UTC 版)
概要
秋月氏はもともと筑前国秋月を領していたが、豊臣秀吉の九州征伐のとき、時の当主・秋月種実が島津氏に与して抵抗し、のちに秀吉に恭順した。これにより日向国串間3万石に移封された。種実は最盛期に30万石以上の領地を支配していたため大幅な減石といえる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、秋月種長は西軍に与して大垣城を守備していたが、9月15日の関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると、いち早く東軍に寝返って大垣城にあった西軍の諸将を殺害して開城したため、所領を安堵された。その後、慶長9年(1604年)に居城を財部城(高鍋城)に移し、正確にはこの時点より高鍋藩が成立したと言える。
2代種春は、家老の白井種盛・種重親子による専横に悩まされ続けた。また財政が逼迫し、知行の半減などがなされて、藩士の禄高は最高でも300石を出ないものとなる。
3代種信は、その白井一派の専横により生じた問題(上方下方騒動)を解決し、悪化した藩財政の回復にも取り組んだ。延宝元年(1673年)、財部から高鍋に城地の名を改めた。
4代種政は、元禄2年(1689年)弟の種封に3000石を分与したため、以後の表高は2万7000石となった。
江戸時代中期、6代種美の次男は米沢藩(上杉家)に入り、名君として有名な上杉鷹山(治憲)となるが、その兄に当たる7代種茂も、高鍋藩の歴代藩主の中の名君として治績を上げた。安永7年(1778年)には藩校明倫堂を開いた。
秋月家は10代にわたって高鍋を支配し、明治時代に至った。
明治4年(1871年)廃藩置県により高鍋県となる。その後、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て、鹿児島県より分離、宮崎県となった。藩主家は明治2年に華族に列し明治17年(1884年)に子爵となった。
高鍋藩は藩校・明倫堂を設立し、藩士教育に熱心だったことから「教育の藩」としても知られており、近隣諸藩の間で「高鍋で学者ぶるな」と言われるほど藩士の教育水準が高かった。
藩牧と御崎馬
江戸時代の初めには、高鍋藩も他の藩と同様に軍事用の騎馬や運搬用として畜産を進めていた。特に馬の生産において力を入れた牧場が、藩の飛び地であった御崎牧(現宮崎県串間市都井)である。種美時代には藩営の牧場が高鍋に1つ、串間市に7つあった。この頃から放牧しておりそのまま半野生化しているのが都井岬の御崎馬(岬馬)である。国の天然記念物に指定されている。高鍋藩では、毎年秋のころに「駒追い」(馬の検査を兼ねて2歳の牡馬を捉える行事)が行われていた。[1] 名目は少し変わってきているものの、「都井岬馬追い」として現在でも毎年続いている。[2]
- ^ 串間市史. 串間市. (1996年3月)
- ^ “草原駆ける 都井岬「馬追い」”. 宮崎日日新聞. 2019年9月閲覧。
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