阿野全成 生涯

阿野全成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/09 07:35 UTC 版)

生涯

7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名する。

治承4年(1180年)、以仁王令旨が出されたことを知ると密かに寺を抜け出し、修行僧に扮して東国に下った(『吾妻鏡』治承4年10月1日条)。石橋山の戦いで異母兄の頼朝が敗北した直後の8月26日、佐々木定綱兄弟らと行き会い[2]相模国高座郡渋谷荘に匿われる。10月1日、下総国鷺沼の宿所で頼朝と対面を果たした。兄弟の中で最初の合流であり、頼朝は泣いてその志を喜んだ。

頼朝の信任を得た全成は武蔵国長尾寺(現在の川崎市多摩区妙楽寺)を与えられ(『吾妻鏡』治承4年11月19日条)、頼朝の妻・北条政子の妹である阿波局と結婚する。阿波局は建久3年(1192年)に頼朝の次男千幡(後の実朝)の乳母となった(『吾妻鏡』建久3年8月9日条)。全成は駿河国阿野荘(現在の静岡県沼津市)を領有し鎌倉幕府の御家人として仕えたとされる。

養和元年(1181年)以降、全成は『吾妻鏡』文治元年(1185年)12月7日条と建久3年(1192年)8月9日条に所見するが、藤原公佐(全成の娘婿)や阿波局の関連で言及されているだけで、頼朝期には本人は一切登場しない。『玉葉』寿永2年(1183年)11月6日条には「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」とあり、鎌倉に亡命してきた頼朝の妹婿一条能保の滞在先は全成の邸だったという。

正治元年(1199年)に頼朝が死去し、嫡男の頼家が鎌倉殿を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と結び、頼家一派と対立するようになる。建仁3年(1203年)5月19日・子の刻(午前0時頃)、先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し御所に押し込めた[3]。全成は5月25日に常陸国配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された[4]。享年51。

さらに7月16日には三男の播磨公頼全が京都の東山延年寺で源仲章佐々木定綱らが遣わした在京御家人によって誅殺された[5]

全成の墓は沼津市の大泉寺に嫡男(四男)時元のものと並んで現存し、市の史跡に指定されている。また、誅殺された場所は栃木県芳賀郡益子町の宇都宮家の菩提寺がある集落にあるとされ、その場所(大六天の森)には従者のものと阿野全成のものとされる2つの五輪塔が遺されており、地元民によって管理されている[6]


  1. ^ 上田正昭ほか 2009, p. 43.
  2. ^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(一)』岩波文庫、1996年、33頁。 
  3. ^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(三)』岩波文庫、1996年、253頁。 
  4. ^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(三)』岩波文庫、1996年、254頁。 
  5. ^ 龍粛・訳注『吾妻鏡(三)』岩波文庫、1996年、255頁。 
  6. ^ ましこ世間遺産認定No.4:源頼朝の弟阿野全成の墓と大六天の森(栃木県益子町ホームページ)


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