阿野季綱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 阿野季綱の意味・解説 

阿野季綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 08:22 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
阿野季綱
時代 戦国時代
生誕 文明3年(1471年
死没 永正8年9月16日1511年10月7日
官位 従三位
主君 後柏原天皇
氏族 阿野家
父母 父:阿野公熙、母:勧修寺経成の娘
養子:季時
テンプレートを表示

阿野 季綱(あの すえつな)は、戦国時代の公卿。官位は従三位

生涯

父・公熈は応仁の乱の際に葉室光忠(室は公熈の従兄弟)とともに足利義視を支持し、母もかつて義視の寵愛を受けていたとされる事から、義視の子である足利義材将軍になるとその信任を受けた。明応の政変の際にも義材に近侍していたが、京都に脱出している。

その後、明応7年(1498年)になって突然京都を脱出して越中国に亡命中の足利義材に合流し、東坊城和長に義材の改名の相談を持ち掛けるなど、京都の朝廷や公家との連絡係を務めている。

永正5年(1508年)に足利義稙(義材を改名)が京都に戻って将軍に復帰すると、その推挙によって同年7月16日に参議左近衛中将に任ぜられ、位階も従四位上に進められた。復帰後の季綱は義稙の為に朝廷や公家達との交渉を行ったほか、細川高国大内義興に義稙の意向を伝えるなど、将軍側近の地位を得るに至った。

永正6年(1509年)に正四位下、永正8年(1511年)に従三位に叙せられるが、同年に41歳で急死した。

系譜

  • 父:阿野公熙
  • 母:勧修寺経成の娘
  • 妻:無
    • 養子:阿野季時(実父は万里小路賢房[1]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 血縁上は藤原北家勧修寺流

参考文献

  • 「阿野季綱」『公卿人名大事典』野島寿三郎編、日外アソシエーツ、1994年、32頁。ISBN 4816912444
  • 木下昌規「足利義稙の側近公家衆の役割をめぐって」『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。 ISBN 978-4-87294-875-2(初出:「足利義稙の側近公家・阿野季綱の役割をめぐって」『戦国史研究』第56号、2008年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「阿野季綱」の関連用語

阿野季綱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



阿野季綱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの阿野季綱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS