野田城・福島城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 21:29 UTC 版)
野田城・福島城の戦い | |
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野田城の石碑 | |
戦争:攻城戦 | |
年月日:元亀元年(1570年)8月26日 - 9月23日 | |
場所:野田城、福島城周辺 | |
結果:三好三人衆、石山本願寺連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
三好三人衆軍 石山本願寺軍 雑賀衆 |
織田軍 室町幕府軍 |
指導者・指揮官 | |
三好長逸 三好宗渭 岩成友通 顕如 細川昭元 三好康長 安宅信康 十河存保 斎藤龍興 鈴木重秀 |
織田信長 足利義昭 松永久秀 細川藤賢 三好義継 和田惟政 |
戦力 | |
三好三人衆軍 5,000~13,000(諸説あり) 石山本願寺軍 不明 |
織田信長軍 約30,000(諸説あり) 室町幕府軍 約30,000(諸説あり)[1] |
損害 | |
不明 | 不明 |
注釈
- ^ 野田城・福島城は、かつて中嶋の戦いで浦上村宗が野田と福島の地に布陣したのが初見である。現在は都市化され、大きく地形が変化しており、野田城は石碑がある程度で城跡の名残は殆ど見受けられず、福島城は城の場所すら特定されていない。
- ^ このような広範囲に配陣したのは石山本願寺への牽制の意味もあったのではないかとされている[2]。
- ^ この時期の信長と義昭の関係は微妙なものだったが、この時はまだ表面化していなかった。『信長の天下布武への道』では「足利義昭の出陣はどうやら自分の意志だったようである」としている。また、久野雅司は三好三人衆の標的は義昭であり、この戦いの本質は足利義昭と三好三人衆の戦いで、信長は義昭の、本願寺は三人衆の援軍であったとしている[6]。
- ^ 2万からなる雑賀衆・根来衆は義昭の要請に応じた畠山秋高がおくりだした援軍で、「天地も響く」と言われる銃撃戦は傭兵雑賀衆と雑賀衆・根来衆連合軍が戦った可能性がある。[3]
- ^ 諸国の門徒衆が集結するのを恐れたためではなかったかとされている[2]。
- ^ 『足利季世記』によると、同日に顕如軍が5千-6千の兵で信長がいる森口を襲撃したともいう。
出典
- 1 野田城・福島城の戦いとは
- 2 野田城・福島城の戦いの概要
- 3 開戦までの経緯
- 4 戦いの状況
- 5 戦後の影響
- 6 参考文献
固有名詞の分類
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