赤間神宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/24 05:25 UTC 版)
歴史
文治元年(1185年)の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかったが、赤間関(下関)に建久2年(1191年)、勅命により御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた。以後、勅願寺として崇敬を受ける。
明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称した。また、歴代天皇陵の治定の終了後、安徳天皇陵は多くの伝承地の中からこの安徳天皇社の境内が明治22年(1889年)7月25日、「擬陵」として公式に治定された。天皇社は明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改称し、官幣中社に列格した。
昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し、赤間神宮に改称した。
第二次世界大戦により社殿を焼失し、昭和40年(1965年)4月に新社殿が竣工した。
昭和38年(1963年)9月には当時の皇太子(明仁親王)が参拝した[1]。
昭和60年(1985年)、源平八百年を期に石川県の輪島市にある平時忠の子孫「時国家」に分霊が親授された。その際に邸内社が建立され「能登安徳天皇社[2]」の称号が授与された。
境内
- 安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)
- 日本西門鎮守八幡宮
- 大連神社
- 紅石稲荷神社
- 平家一門の墓(七盛塚) - 壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)。以下14名の供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。
- 芳一堂 - 『耳なし芳一』を祀り、芳一の木像を安置する。
- 水天門 - 神門は竜宮城を模した竜宮造の楼門。「水天」の名称は安徳天皇が水天宮の祭神とされることによる。
安徳天皇縁起絵図
赤間神宮に伝わる襖絵。土佐光信筆という。
赤間神宮と同じ種類の言葉
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